変貌山というヤマ場

チア・シード

マルコ9:2-8   


ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを弟子たちの中から選びました。福音書の創始者マルコがすでに、この3人を弟子たちの代表格として扱っていることは注目すべきでしょう。教会の成立とその継続の過程で、彼らの役割が大きかったことを意味していると理解できます。特別な場面に同行されるこれら3人の証言が、キリスト教の要となったのでしょう。
 
山に登るということは、モーセの時もそうでしたが、神に近づくということを意味するものと思われます。山から下される声は、天から、つまり神から人へもたらされるものを映し出しているはずです。イエスの姿が変わるというのは、人と神のレベルの差異が感じられますが、復活体を暗示しているのかもしません。真っ白な衣も黙示録の国を垣間見させます。
 
エリヤは預言者、モーセは律法を表すというのは確実で、イエスがメシアとしてこれらをその真実の意義でつなぎまとめます。だからここは聖書一般、つまり神の言の出会い、集大成が描かれていることになりましょう。イエス・キリストの登場で、神から人へ注がれる恵みが完全に揃ったのです。
 
この場面のもつ雰囲気にはただならぬものがあります。どうしてこのようなファンタジーめいたシーンが描かれたのでしょう。ここはマルコの福音書の、分量的にもほぼ中央にあたります。ユダヤ文学で、挟み込みが自然な構成であるとすれば、中央部分はクライマックスがあるものと理解されます。この異様な場面は、福音書のまさにヤマ場ではないでしょうか。
 
この直後、イエスは弟子たちと山を下り、復活までこのことを誰にも漏らすなと告げます。メシアの秘密が度を増していくのです。もちろん読者へはこれを明らかにしていますが、この変貌事件はリアルタイムには隠されていたのです。それほどに重要なエポックとして、教会の中で認識されていたことになるのです。
 
ペトロが、3人のために小屋を建てましょう、などと訳の分からないことを言います。出エジプトに由来する仮庵の祭を想起することもできますが、だとするとこの世から抜け出るひとつの道標を暗示しているとも考えられ、ペトロの発言は必ずしも意味のないものではなくなるかもしれません。しかし人が口を挟むものではないことを教えているかもしれません。
 
雲が現れます。雲は神の臨在を示します。これも出エジプトが想起されます。神がこちらへ導き、それに合わせて行動するのです。そこから声がします。神は目に見える形でなく声として現れます。私たちも聖書から声として神を知ります。それは偶像ではないのです。見えるものは神ではなく、あるとすればイエス・キリストただ一人であったということだけです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります