コミュニケーション不全

チア・シード

マルコ9:14-29   


ものが言えず、所構わず倒れ泡を吹き、歯ぎしりをして体をこわばらせてしまう。痙攣して字面に倒れ、泡を吹きながら転げ回るともあります。火の中や水の中へも入り、手のつけようがありません。これがその子の病状でした。その年齢は定かではありませんが、幼い時からそうだと父親が答えていますから、今は幼いとは言えない年代なのでありましょう。
 
私たちの時代でいう癲癇の症状にも似ていますが、決めつけはできないでしょう。少なくとも当時はこれを悪魔の仕業と見るしかありませんでした。いや、そのことは今でさえ否定は難しいかもしれません。聖書の世界では、そのように原因を特定することにより癒しがなされました。悪霊の退散により解決と考えられていたわけです。
 
意志ある何ものかが、人間の体にそのような作用をしていないという証拠はどこにもないので、たとえ物質的な症状のメカニズムを明らかにしても、その背後にあるものまでは分からないとしか言えないのです。イエスはこの霊に向かって、「ものを言わせず、耳も聞こえさせない例」と叱りつけました。聞こえていないことは、見破ったということでしょうか。
 
イエスのこの言い方は特筆に値します。これは癲癇のような病気を起こすばかりとは限らないからです。私たち自身、あるいは周囲を見渡すことで、これはありうることとは言えないでしょうか。もちろん、ろう者のことを指しているわけではありません。神の言葉を言わせない、善いことが言えない。そのような症状は、私にもあるからです。
 
ちょっと耳にすると善いことを言っているかのようであっても、実は己れの腹黒さから出ている、そんなことしか言えない人間。だから、ここで英語ならmuteでありdeafであるというような指摘も、身体的物理的なありさまだと限定せず、他人とのコミュニケーションがうまくいかないケースを包括しているというように読むこともできると捉えたいのです。
 
弟子は言います。できませんでした。イエスは、なんと信仰のない時代なのかと嘆きます。耐えれないと嘆きながら、その子を自分のところに連れてくるようにと命じます。父親が「できれば」助けてくれと願いますが、イエスは信じる者には何でもできるのだと答え、父親は直ちに気持ちを前進させます。
 
イエスの命令によりその子は死んだように動かなくなりましたが、イエスが手を取って起こすと立ち上がります。何かしらコミュニケーションが通じる様子と、通じない様子とが対比されます。弟子たちはこの直前、律法学者たちと議論をしていました。でもそれはいつの間にか、適切なコミュニケーションを阻む営みとなっていたのかもしれません。


Takapan
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