自分の十字架を負うということ
チア・シード
マルコ8:34-38
群衆をもイエスは呼び寄せています。もちろん弟子たちもいます。群衆とは誰でしょう。まだイエスを信じているとは言えない人々でしょうか。弟子たちというからには、すでにイエスに従っている者たちでしょう。但し、イエスと寝食を共にするほどにまで生活を後ろに追いやって従っているとは限りません。在家信者もいたのではないでしょうか。
線引きは難しいのですが、とにかくここでは、いつも共にいるとは限らない人々へも、このメッセージを送っている、ということにしておきましょう。というのは、この直前でイエスが、自分が殺されて復活することを教えたのは、弟子たちへであって、群衆に対してではないからです。「しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」(8:32)
改めて群衆にも言うことには、「私の後に従いたい者」がいないか、ということでした。その者は「自分を捨て」よ。あるいは、別訳では、否定せよ、と言い渡していることになります。そして「自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言いました。これは様々な意味に解釈され得る言葉です。自分の苦労を指すとか、過ちや運命のことだとか。
ただ、イエス「のため、また福音のために自分の命を失う」ことが、十字架を負うという意味でもあることを遠ざける必要はないでしょう。それは「自分の命を損なう」ことにはなりません。「命を買い戻すことができ」る、とイエスは考えています。イエスの十字架が、それを可能にするのです。でも、各自もまたそれぞれの十字架を負う、といいます。
それは他人を救うことまではできませんが、自分の命を救うことになるのだそうです。逆に、救おうということを第一にするならば、もしかすると、全世界を手に入れることになるかもしれませんが、結局自分の命を損なうことにもなるわけです。悪魔の誘惑で、この見える世界を手に入れるために悪魔を拝せよ、と迫られたように。
イエスという代価を、私たちは与えられます。イエスの贖いを無視するならば、「神に背いた罪深いこの時代」の常識です。イエスを、そしてイエスの言葉を恥じるような者は、キリストもまたいずれくる主の日に、その者を恥じる、というのです。イエスを諫めたペトロの行為は、正にイエスの言葉を恥じたようなものでした。