神に背いた罪深いこの時代

チア・シード

マルコ8:31-38   


メシアだとペトロがイエスのことを考えていると告白します。但しイエスは、他言無用だと命じます。イエスは、自分が殺され復活することを明らかにすると共に、それを諫めたペトロをサタン呼ばわりします。もはや戒めるどころのものではなく、イエスの語気はものものしいものだったと思われます。
 
イエスの言葉は続いて、弟子たちと共に群衆へも向けられます。イエスに従いたいなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、そうして従うのだと教えます。人々はほんとうに、イエスに従いたいと思ったでしょうか。自分の関心事の片隅にしかないような相手に従うことはできません。いま私たちはイエスに従おうとしているのか、問われます。
 
もし従うために命を失うようなことになっても、実は救うことになるのだ、という言い方は、力になるでしょうか。命を得ることは、全世界を手に入れることよりも大きいのだとイエスは知らせるのですが。あなたはこの言葉を信じるか。そう迫られているように感じないとしたら、聖書を読む意味などないに違いありません。
 
私たちは、どのように聖書に向き合っているでしょうか。ストーリーを楽しみ、分かったような批評をし、聖書の言葉を自分が牛耳っているかのように、思い違いをしているのではないでしょうか。あるいは、聖書の権威に驚くのではなく、自分が権威をつけてやっているのだ、みたいなとんでもない錯覚に支配されていることはないでしょうか。
 
一連のこの場面、マタイもルカも引き継いで記事に採用しています。しかし、この二つともマルコから引き剥がしてしまった部分があります。「神に背いた罪深いこの時代に」というフレーズです。マルコがきっと一番力をこめて記したであろうこの叫びを、マタイもルカも、わざと省いてしまいました。何故なのでしょう。
 
俺たちもまさか神に背いているとでもいうのか、と怒ったのでしょうか。そんな誤解を招く語はないほうがよい、と思ったのでしょうか。実際教会に、イエスやイエスの言葉を恥じるような者がいて、気を悪くさせないように忖度したのでしょうか。自分の中に、神に背くものがあることを感じて、無意識のうちに避けたのでしょうか。
 
こうして私たちは、今の時代をどのように認識しているかを問われています。今の時代、これを免れていると言えるのでしょうか。いえ、益々今は、神を自在に支配しようとする罪深さの中にあるとは言えないでしょうか。サタンと呼ばれる者に、実は言いように操られているのではないでしょうか。イエスに従うことを求めているのでしょうか。


Takapan
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