苦難があってはならないのか

チア・シード

マルコ8:31-35   


イエスはこれから苦しみを受け、排斥されて殺されて、三日の後に復活することになっている。弟子たちにそう知らせます。はっきりとそう言ったのでした。これを聞いてペトロは、イエスと二人だけになり、こっそりと進言します。何と言ったのかは書かれていません。そんなことを言うものではありません、のようなことか。願ったのか、叱ったのか。
 
私たちにはそれは分かりませんが、とにかくイエスは、個人的にクレームをぶつけたペトロを「叱った」と記しています。確かにマルコは弟子たちに批判的な眼差しを向けていますが、ペトロは叱られなければならなかったというのは、よほどそのように考えてはいけなかったということを表していると見るべきでしょう。
 
ペトロといるままに、イエスは弟子たちのほうを振り返ります。弟子たちを皆見渡して、ペトロを悪魔呼ばわりするのです。「サタン、引き下がれ」とは穏やかではありません。性格に言うと、ペトロがサタンだと言っているのではないのです。紛れもなく、サタンに対して言葉を投げかけたのです。それでも、ペトロに向けて「あなた」と呼びかけてきます。
 
あなたは神のことを考えているのではなく、すっかり人のことだけしか見ていないではないか。ペトロは返す言葉もありません。マルコはペトロが何か答えたようには書いていません。言い返したとしても、そこに価値を見出してはいません。マルコは、なんとかイエスの言葉を遺し伝えなければならないとの使命感を強くもっていたに違いありません。
 
私たちにこの情熱はあるでしょうか。私の考えなどどうでもよいのです。イエスの言葉が命となって聞く者に、読者に届け、という切なる願いを私たちは有しているでしょうか。イエスに従って行きたいなら、自分を捨て自分の十字架を負ってからイエスに従え、と言ったイエスの言葉をこの衝撃的な場面に乗せて、はっきりと伝えねばならないと思ったのです。
 
自分の命を救おうと目論むと失敗する。自分の命を失うなら、救うことになる。イエスのために、福音のために、自分の命はどうなってもよいというのなら、命は救われる。マルコはこれを、なんとしても伝えたかったのです。聖書を語る者は、神の言葉を、これほどの熱意をもって、伝われ、届け、と語ることが求められていることになります。
 
注目すべきは、イエスに従いたいという思いがここには前提のようになっている、ということです。弟子たちこそ、イエスに従いたいと思い、ここまで実際従って来たのです。ペトロもその一人です。ただ、イエスが゜復活する」と言ったところは聞こえていませんでした。苦難の向こうには、命があるというところを、聞かねばならなかったのです。


Takapan
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