開け

チア・シード

マルコ7:31-37 


マルコ伝では11章にイエスがエルサレムに入城し、そこに至るまでに三度、死と復活を予告しています。イエスの癒しの旅がずっと続いてきましたが、癒しの記事はさすがに少し減少します。ルカ伝でエルサレムに焦点がしっかり当てられていますが、マルコ伝では、いまなおガラリヤの辺りをうろうろしているかのように見えることもあります。
 
耳が不自由なら、言葉を口から音声として出すのも難しい。そういう人を連れてきた人々は、イエスに、手を置いてくれと願いました。それで癒されると考えていたのです。当時だと、ろう者はまともな教育を受けられず、人間扱いされていなかった可能性が高いと思います。つい最近まで日本でもそうだったのですから。それをイエスの許に連れてきた人々の思いを想像します。哀れに思ったのか、それともイエスを試すような気持ちがあったのか。
 
癒された現実を目の前にして、人々は、イエスに口止めされていたにも拘わらず、黙っておられず言い広めています。これでイエスのメシア性がまた広く響き伝わっていくことになります。つまり十字架への準備が整っていくことになります。マルコ伝の群衆は、ルカ伝ほどには冷たく見られていないと思いますが、人間は、自分の感情をやはり抑えることができないようです。
 
さて、この癒された人は、イエスに「エッファタ」と命じられることで、聞こえるようになりました。イエスは、上に手を置いてくれと頼まれたはずでした。イエスはまずこの人を、群衆の中から引き出します。それから指を両耳に差し入れます。次に唾をつけてその舌に触れます。ちっとも上に手を置いていません。イエスは天へ顔を向け、深く息を吸います。父なる神から霊を受けるポーズなのかもしれません。
 
「エッファタ」はアラム語だと言われます。マルコ伝は、「タリタ・クム」「アッバ」「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と、アラム語を随所に盛り込みます。イエス自身が使っていた語だという説が一般的ですが、そうでないかもしれないという声もあります。イスラエルを支配した大帝国が受け継いできた言語であるアラム語がほんとうに共通語であったのかどうか、議論の余地はあるだろうと思いますが、少なくともマルコはアラム語を印象的な場面で遺しています。
 
「エッファタ」は「開け」という意味だとわざわざ記しています。呪術的なものではないかという研究家もいます。でもなぜ「開け」なのでしょうか。音が閉ざされていたからでしょうか。舌が閉じられているということなのでしょうか。それとも私たち自身、実は何かに閉ざされているのではないでしょうか。自分は見えていると豪語することを戒められている私たち。聞いていますよ、と胸を張って言いがちですが、それほどに怪しいものはありません。
 
私たちの耳はイエスのことばを聞いているようで聞いていません。耳が開かれなければなりません。私たちの口は、大切なことを言うことができず閉じられています。舌が開かれなければなりません。主のことばを聞け。主のことばを語れ。はっきりそれができるようにと癒されているのは、この私です。イエスは私の上に、すばらしいことをなさったではありませんか。私自身、身を以てそのことを語る証人として、イザヤ書の預言の成就を示すべきなのです。耳の聞こえない者たちよ、聞け。耳を開きながら、聞こうとしない者よ、聞け。口の利けなかった人よ、喜び歌え、ということが起こった証しをするのです。


Takapan
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