私がパンと魚をもらった

チア・シード

マルコ6:39-44   


群衆が追いかけてきた。イエスは腸を痛くし教えを語った。夕刻が近づいたので、弟子たちが解散を求めたら、イエスは食べ物を与えよと言う。それは無理だと弟子たちが呆れると、イエスはその場にパンが五つと魚が二匹あることが分かった。今日、この背景を無視したその次から聖書を読みます。ここまでの経緯を知らずに読むということをしたいのです。
 
どうすればよいのでしょう。簡単です。群衆の一人になるのです。五千分の一となって、この場にいることにします。イエスを追いかけてぞろぞろとガリラヤ湖を巡りイエスの舟を迎えます。イエスは舟の上から話をしてくれました。ずいぶん話を聞いていました。すると弟子たちとイエスが何やらもぞもぞ話をしています。やがて弟子たちが大声で言いました。
 
組になって座れ。百人、五十人とグループができました。どうしたんだ。とにかく言われるままに集団になります。そこには青草がありました。湖からの風が頬をさすっていきます。空は日が傾いてきました。ああ今日も一日が終わる。ユダヤの一日は日没で始まるのです。なにしろ五千人もいたのです。集団があちこちできるのに時間がかかります。
 
隣にいた人に話しかけます。今日はよい教えを聞いたなあ。でもまだ帰る気にもならないや。楽しみにしていたライブコンサートが終了した瞬間のような興奮と、そろろそ帰らなきゃという思いとが入り混じります。でもどうしてこんなふうに座れなんて言われるんだい。おい見ろよ。イエスが何かしている。顔を天に向けて祈っているようだ。
 
手に何か持っているよ。このライブ、まだ最後に何かびっくりするような仕掛けがあるのかもしれない。イエスが手に持ったものを、弟子たちが受けてこちらのほうに来る。何だろう。何かくれるのだろうか。集団の中のひとりに、弟子が何か渡している。列のようになった最初の者が、後の次の者に何か渡している。そのリレーが、こちらに近づいてきた。
 
前の者が後の者へ、次々と渡していく。私は、弟子たちが五千人に手渡していったというよりは、まわしていったと想像したいとおもいます。一人ひとりが、自分のものだと「がめない」で、まだ前からちゃんと来ることを信頼して、後ろの人に与えていく光景が、辺り一面で行われています。近づいてきた。おや、食べ物じゃないか。パンと……魚だ。
 
なかなかのご馳走じゃないか。食べてよいのか。イエスはまだ祈って、次々と弟子に渡している。あれもパンと魚のようだ。美味しい。私はがつがとそれを食べ、また元気が出てきた。いや、もう満腹になった。悪いが食べ残しはどうしたらいいんですか。あの篭に入れよ? はい、持っていけばいいんですね。篭が12もある。やがて残飯でそれらは一杯になる。
 
イエスが祈って、私たちのための食べ物を祝福してくれたんだろうな。食べるというのは命を支えること。イエスがこの体を支えてくれした。腹と一緒に、胸も一杯になる。自分で「がめない」で互いに信頼し合った仲間たちと笑い合う。あの余った篭の中のものはどうするのだろう。どうかそれを、私がまた誰かに配ってもいいですか。


Takapan
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