勝手に絶望するな

チア・シード

マルコ4:26-29   


神の国はたとえでしか示せないかのようです。言葉は不確かなものであり、ある人の経験を別の人に、言葉によっては完全に伝えることができません。但し、それが逆に、言葉によって創造の余地が残り、受け手が物語を新たなものとして経験することができ、いわば言葉には創造作用があるということも言えるでしょう。
 
福音書もそうであって、読者を巻き込んで常に新しい世界の創造を行っています。時にそれは、語る側の意図を超えて神の業として読者側でこの世界に実現していく創造をもたらします。イエスの言葉の場合は、語るイエスの意が神の国の種となり、それがこの人間世界と人間、つまりこの私という土地で育ち実ることが期待されているのだと思います。
 
ここに語られる神の国は、人がその穀物の生長についてなんら知るところがない、という一面から語られています。発芽や生長のメカニズムも理由も、人は理解しているわけではありません。人の関与があって初めて育つというものではないのです。いわば放っておいただけで、命ある植物は、自ずから生長し、豊かに実るのです。
 
人は何かをなすべきだという方向性と、人がなすのがすべてではないという方向性が、私たちの目の前に対立することがあります。これは適切に受け止めなければなりません。ともすれば、なすべきときに何もせず、しなくてよいことを我執から躍起になってやろうとするのが、えてして人間というもの。人の領域と神の領域をどう弁えればよいのでしょう。
 
生長させるのは神だ、とパウロのように言ってみても、どこからどこまでが神の領分なのか、決して分かりやすいものではありません。イエスの謎めいたこの譬を私たちはどう捉えればよいか、焦点がはっきりしないように見える人もいようかと思います。ここでは、実が熟したことが結論部に来ているところに注目してみましょう。
 
鎌を入れるのは、この譬に出てくる「その人」です。結局当人は何の知識もなく、ただ種を蒔き収穫しています。人の救いを目の当たりにする私たちも、それが人の知らぬところで進む神の業であるとしか言えません。神は今も刻々と働いており、神の計画は着実に進められています。そうだ、この世界の有様に、絶望することはないのです。


Takapan
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