復活の不信仰

チア・シード

マルコ16:9-13   


マルコの福音書に最初から存在したものとしては、8節で終了というのが通説です。しかしそこは実に中途半端な結末に思え、信徒たちは不安になったかと思います。後継者たちは、いくつかのプランでこの福音書の結びを考え、付け加えたのではないかと想像できます。そもそも福音書というものが何であるのか誰も分かっていなかった時代のことです。
 
マルコの意図を察するのは非常に難しい。でもその後グループの中のイエス像を形にするためか、マタイやルカといった名称による福音書が編まれることとなり、そこでは明らかにイエスの誕生と復活の記事を盛り込んで伝記的にまとまりよく仕上げました。もしかするとヨハネ伝もすでにいくらか形を成していたかもしれません。
 
マルコはやはり福音書のオリジナルとして尊重されていたはずで、そこで欠けていた復活の記事を付け足してでも、マルコはマルコでひとつの福音書として用いることができるようにした、と考えることができるかもしれません。マグダラのマリアの話はヨハネ伝と関わりがありそうです。マリアはイエスと共にいた人々のところに行ったようです。
 
皆は嘆き悲しんでいました。マリアはイエスの復活の姿を見た、と知らせますが、相手にされません。如何せん、女には法的に証言能力がなかったのです。少しも信じてもらえません。イエスの復活を証しするクリスチャンたちの言葉も、世間では受け容れてもらえません。でもマグダラのマリアは教会で一定の役割を果たしていたのは確かです。
 
この記事に続く箇所は、明らかにルカ伝の復活の場面です。しかしルカ伝では、イエスの復活の事実を、二人の弟子たちの出来事を聞いた仲間と共に分かち合っていた様子が描かれていたのに、ここではそれが信じられなかったということになっています。つまりマルコ伝に付加されたという結びにあっては、目撃談は仲間たちに信用されなかったのです。
 
復活のイエスに私は会った。これは私たちの信仰の証しです。しかし二千年前にもやはり信じられなかったというのが本当のところではないでしょうか。死人が生き返ったなどというのは、恐ろしい出来事のはずです。不信仰と頑なな心がそこにあったと言われても仕方がありません。この後パウロの時代が開かれていき、ようやく様相が変わるのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります