付加だから意味がないなんて

チア・シード

マルコ16:9-13   


近代になって、文献が研究されていくと、マルコによる福音書はどうやら最初は8節で終わっていたに違いないと判明してきました。その後、他の福音書などを参考にして、復活後の記事を、ある意味で定番だったマルコの末尾にうまくまとめて付け加えたのだろう、と推測されるようになりました。オリジナルにはこの箇所はなく、書き加えられただけのものだ、と。
 
そうなると、ここを真面目に取り上げて説教をする気持ちにはならなくなります。普通あまりここから説教が取り次がれません。逆にうまくまとまっているから、とイースターに用いることもありえますが、少数派ではないでしょうか。元のマルコは、イエスの復活の姿を遺していません。故意になのか、これ以降が紛失したのか、いろいろ想像されています。
 
確かに「恐ろしかったからである」で福音書が終わるのは気持ちのいいものではありません。墓から消えたイエスはどうなったのか。ガリラヤで会えるとはどういうことなのか。謎に包まれています。これを謎としておくことに耐えられなかった知恵者が、結末を考えて加えた、というのが通例の見方です。だから大きく2種類の結末が別々に遺っているのだ、と。
 
このようにして、原典としてはあまり信用されていない2つの結びですから、説教に好まれないのも肯けます。でも、これはもう神の言葉ではないのでしょうか。ここが神の言葉として私たちに働いてくることはないのでしょうか、もう一度考えてみたいと思います。たとえばまずマグダラのマリアについての情報が簡潔にまとめられています。
 
弟子たちはマリアの証言を信用しませんでしたが、当時の女性という立場からすると十分ありえた事柄です。但しヨハネによる福音書では、マリアの報告を聞いてペトロら2人が墓へ駆けつけています。マルコによる福音書は弟子たちを批判的に描きますから、信じなかった、とするほうが似合っているのかもしれません。
 
エマオへの道のエピソードも軽く添えられています。ここでも、2人の証言を弟子たちは信用していません。マルコに即していると言えるでしょう。イエスはついに、ユダを除く11人の弟子たちのところに現れますが、その時にも彼らの不信仰を咎めます。ストーリーとして、なかなか筋の通ったものになっているとは思います。
 
さて、どうでしょう。私たちはこの弟子たちと比べて、信じている、と言えるのでしょうか。人に現れたイエスということをどう捉えているでしょうか。マリアは、ヨハネによる福音書において、私は主に会った、と告げました。ルカによる福音書は、この2人の報告時にイエスが現れても、弟子たちはただ怖れるばかりでした。疑いを懐いていました。
 
私は主を見た。私は主に出会った。このように喜ぶ仲間に対して、時折冷たい視線が寄せられます。しばしば、自分がそのような体験をもたない者たちが、主を体験して喜ぶ人たちに向けて、冷ややかな態度をとります。教会は、イエスに出会った者たちの集いのはずですが、何かしら日常の枠を揺さぶる出来事があると、塗り分けられてしまうのです。


Takapan
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