言葉のシチュエーション

チア・シード

マルコ16:15-20   


全世界へ行け。ダイナミックに拡がって行け。端的にそう言われるのは、却って気持ちがよいものです。もちろん、マタイ伝を踏まえての付加だと見られる部分です。マルコの福音書の末尾には、幾種類から結末が、明らかに後から書き足されているとされています。オリジナルを尊重する人からは嫌われますが、改訂版なので良くなっているとの見方も可能です。
 
あらゆる被造物に福音を伝えよ。説き明かし、宣べ伝えよ、といったニュアンスをもつものと思われますが、ここで人間だけだと決められているのでないように見えるところは面白いものです。アッシジのフランシスコのように、自然に語りかけても、構わないような空気が漂います。もちろん、人間だけと解釈してはいけないということもありません。
 
この福音を聞いて信じることが求められています。同時に洗礼にも力を置いた言い方になってます。すでに教会という組織の権威や力が、ある程度固まっていたことが推測されます。罪に定められるという言い方もそうです。また、しるしという形でも描かれています。そして、使徒の活躍の中に見られた癒しの他、新しい言葉を語ることに言及されています。
 
新しい言葉とありますが、舌で新しく語る、というような表現だと思います。火のような舌が出てきて異言をもたらし、聖霊を証拠づけるものとなった記事も意識されているのでしょうか。そのルカの使徒言行録の記録にあったような、蛇や毒に纏わる例もここにあります。どこを確実に知っているのかが分かります。
 
マルコ伝末尾のこの補遺には、やはり何かどうしても書き加えなければならない事情があったはずで、気紛れに綴ったとは思えません。つまり当時の教会の信仰を刻むためにどうしても書きたかったことなのです。だからここにあるまとめは、信仰についての分かりやすいまとめであるというように理解することもできるだろうと思うのです。
 
イエスは不信仰を咎めてこれらを告げたことが、直前に書かれていました。つまり、全世界に行けと命じたのは、弟子たちの不信仰を咎めたその時だったのです。叱ってすぐの励まし。弟子たちはきっとしゅんとしたことでしょう。そこへ、全世界へ出て行け、との言葉が向けられたのです。おまえは不信仰だと突きつけられて、にこにこできるはずがありませんから。
 
意気揚々とこの命令を聞いていたのではありません。よし、やるぞと拳を掲げて明るい気持ちでいたのではありません。失意の中へ、宣べ伝えよという主の言葉が注がれたのです。このシチュエーションを踏まえてイエスの言葉を聞かないと、その意味を勘違いして思い込みで理解してしまうかもしれません。私たちは自分の状態を、もう悲しまないでよいのです。


Takapan
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