謎解きに走らず

チア・シード

マルコ16:1-8   


安息日明け一番に墓を訪ねた女たちの名について、マルコは詳しい情報を提供してくれていましたが、マタイはそこから一人削りました。ルカはその名を一切記しません。復活の記事について、マルコ伝には欠落しているとよく言われますが、必ずしも復活の記事をいい加減にしているのではないと言えるのではないでしょうか。
 
墓へ向けて歩く場面も丁寧に描かれています。するとなおさら、復活そのもののシーンの紛失・欠落説が現実味を帯びてきます。ただ、むしろ後から著したマタイやルカが復活シーンを付加した、と見ることも依然できようかと思います。ちょうど、イエス誕生の記事をこの二人が新しく福音書に付け加えたように。
 
墓が石で塞がれていることを女たちは心配していますが、香料を準備しているだけに、遺体に香油を塗る目的で行ったのには違いありません。なんとかなるさとでも思っていたのでしょうか。その通り、入口の石はどかされ、墓へは入れるようになっていました。墓の中に入るとはなんとも勇敢ですが、当時はそういうものだったのかもしれません。
 
そこに一人の若い男の姿が見えました。もちろんぎょっとすることでしょう。身の危険を覚えたはずです。若者はここで、絵に描いたような解説をまくし立てます。つまりマルコはここで事態の説明を施したのです。会話のやりとりのようなものには関心がなかったのでしょう。言いたいことを若者は言い切っておしまいです。
 
女たちは驚いたのみならず、ここで恐怖を懐きました。見知らぬ者がいることへの恐怖ではなく、イエスが復活したという知らせに恐怖を懐いたということです。女たちは香料を抱えてか捨ててか知りませんが、慌てふためいてそこから逃げ去ります。そして誰にも何も言わなかったというのです。ではこの情報は誰から伝わったのでしょうか。
 
喋れなかったのは、当日だけだった、とも考えられます。必ずしも揚げ足取りで矛盾を指摘したつもりにならないようにしましょう。聖書では「すべて」という語が使ってあっても、「多く」の意味であったりするのが常識なのです。女たちはとにかく震え上がっていました。正気ではありませんでした。パウロの言う「しらふ」とは反対の精神状態です。
 
パウロも、トランス状態を知っていたと思われますし、だからこそ異言ということも分かっていたのでしょう。興奮状態にある人間を当時の人はよく分かっていました。日本にも狐憑きなどありますし、コックリさんなども類似の現象だと思われます。恐ろしかったから、と書くと福音書はここでぷつりと終わります。余りにも唐突なようにも見えます。
 
しかし世界初の文学形式である福音書です。このスタイルでよかったのかもしれません。事故故失われたと見るか、マルコの意図や意味を見出そうとするべきか、人類に投げかけられた謎です。復活をまともに描くことを意図的に隠す理由があったのかどうかなど、マルコの意図を考えるのもよいが、とにかく神はこのようにして私たちに考えさせたのです。


Takapan
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