眠りと復活

チア・シード

マルコ14:32-42   


復活した後、先にガリラヤに言っているから。イエスはオリーブ山に向かう途中でそう言いました。ペトロは、そのときイエスが、羊が散らされると言ったことと、イエスを知らぬと口にすると言われたことに反応して、そんなことは言いません、と抵抗しました。まるで復活の語を聞いていなかったようです。これが、実は気づいていない重要なポイントです。
 
そうして着いたゲッセマネ。ここは祈りの場として日常的な場所であったのかもしれません。ペトロやヤコブとヨハネを選び、他の弟子たちは離しておいたようです。3人はイエスに比較的近かったようですが、眠りこけてしまいました。でも、イエスの祈りを途中まで耳にしていた可能性はあります。イエスの祈りの一部は覚えていたのだと考えられるのです。
 
ただ、戻ってきたイエスが3人に、目を覚ましているようにと言われましたが、最初はもしかすると起きていたのかもしれません。でも二度目は眠っていました。重くなっていた瞼。新共同訳では「ひどく眠かった」と訳されていますが、瞼が重かったとはっきり原語は告げています。ここに示唆的なものを感じるような気がします。
 
見るべきものを見ていなかったのです。先ほどの復活がそうです。そこに塞がれています。自然の重力が、つまりこの世の力が、私たちが観るべきものから私たちを遠ざけてしまっているのです。それはペトロの言ったように、死しか分かりません。目が覚めていないと、それしか分からないのです。しかし目覚めれば、復活が見えます。見るべき復活です。
 
見えぬ間は、自分の思い込みと想像で私たちは暴走します。自分の思いつきを究極の真理だなどと吠えまくる声が巷に溢れています。これは見えていないのです。眠っているのです。目覚めていないのです。三度目も同じだったようなので、イエスの少し呆れたような声が響いてきます。ただ、それは非難する様子はありませんでした。
 
もうよい。時が来た。これまで眠り、見るべきものを見ていなかったおまえたちは、仕方のないことだ。だがこれからは忙しくなる。だから、さあ、立て。行こう。イエスは3人を、あるいは弟子たちを促します。ここまでの惨めなありさまのことも、もう問うことはないから、今ここから立って行こう、とイエスは背中を押します。
 
この「立つ」という語は、イエスが先ほど口にした「復活する」と同じ語です。聖書ではしばしばそう訳し分けられますが、ここでも同じがに気づくと、ハッとします。ここに並ぶ語は、「復活せよ、行こう、見よ」というリズムです。いよいよその時が来ました。賽は投げられた。私たちの歩みも、もういますでに始まっています。さあ、行きましょう。


Takapan
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