復活の信仰

チア・シード

マルコ14:27-31   


ゼカリヤ書の引用から、羊飼いをイエスとして散らされる羊が弟子たちであることを「つまずく」という言葉でイエスは示しました。これに対してまずペトロが抵抗し、他の弟子たちもイエスを知らないなどと逃げることはないように答えるという場面です。どう見ても、ペトロの離反の予告がここの主題であるように感じます。
 
「わたしにつまずく」とイエスは言っていますが、「わたしに」はどうやらオリジナルにはないようです。マタイが「わたしに」と付け加えたのを見て、後世マルコのほうにも「わたしに」を入れたのではないかと推測されます。イエスにつまずくのか、事態につまずくのか。なるほど、ここは限定せず含みをもたせるのがよいのかもしれません。
 
マルコは弟子たちを厳しく取り扱っていますが、それでも師のイエス自身につまずくというのは気の毒な気もします。「つまずく」という語は「スキャンダル」に関係した語です。石にけつまずくというよりも、罠でもあり、また失敗する事件であるということでしょうか。罠はおかしいかしら。弟子たちはしくじる経験をするであろうというのです。
 
しかしここでよく見ると、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」とイエスが言っています。それをペテロを初めでした地も、つまずくほうにすっかり目を奪われ、それだけを問題にします。記者マルコもまた、この復活宣言については完全にスルーしてしまっているのはどうしてでしょう。
 
復活の後にガリラヤへ先に行くというのは、16:7でかつて言っていたように、という墓の中の若者の言葉の伏線となっておりますが、ペトロの離反騒ぎでここではかき消えてしまいました。復活という大切な事柄については、弟子たちの耳に全く入っていないかのようです。散らされること、つまずくことに、違いますよと叫ぶだけで終わっているのです。
 
人間は、自分の能力が劣っていると指摘されると強く反応します。なんとか弁護したり、弁明したりしたくなります。弟子たちがこのときそんな心理であったと断定することはできませんが、弟子たちは、自分がどう見られるかについて強い関心が向いていただけのように見えます。人間の弱さは、自分の非なる姿を突きつけられると表に出てしまうのです。
 
自分を愛するのはまだよいとしても、自己顕示欲が強い人は、自分を軽く見られたらもう我慢できません。その正体が暴露されてしまいます。もはや自分にしか関心がない。それで、イエスが復活したりガリラヤに行ったりする話は飛んでしまったのではないか。復活という予告は、この会話から立ち消えになってしまいました。
 
復活についてマルコは、まず8章で初めてイエスに語らせており、ペトロが諫めるシーンを交えています。次に9章で、復活するまでは、という言葉に弟子たちがひっかかった様子を描き、怖くて追及できなかったと記しています。10章での予告は、弟子たちの反応は何もなく、そしてここです。復活など眼中にありません。待てよ、私たちの信仰はどうでしょうか。ペトロのことしか読んでいやしなかったでしょうか。


Takapan
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