終末を心得て目を覚ます

チア・シード

マルコ13:28-37   


「これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレに向けてイエスは言いました。所はオリーブ山。皆、神殿の方を向いています。神殿の境内で、立派な建物だと感心した弟子に対して、それらの石が一つ残らず崩れ落ちるとイエスが言ったので、いつ起こるのかと問うたのです。
 
恐ろしい終末の情景を知らせた後、その日には人の子が来ると語ったことを受けています。いちじくの葉から夏の訪れを知るというのは、もちろん喩えのようなもので、人は夏と分かっていて、いちじくを見てなるほどと思うのです。いちじくに、そういえば夏なのだ、と教えられるのは、殆ど詩人のみです。
 
せめて、いよいよ夏か、と来ることが分かっている者を改めて知り、覚悟をするくらいでしょう。終末が来ることは、もう分かっているのです。ただ、いよいよだなと考えるくらいのことです。戦争も迫害も、偽預言者も、既定路線です。天地が滅びることも、分かりきったことなのです。しかし、イエスの言葉は滅びません。
 
弟子たちは尋ねましたが、「その日、その時は、誰も知らない」のです。父のほか知ることのない終末。神こそが主である一つの姿です。だから、「目を覚ましていなさい」とイエスは戒めます。私たちにできることは、それしかありません。いつ起こるのかについて関心をもつことは、根本的に間違っているのです。
 
出かける主人が僕たちにいつ帰るとも教えずにいる喩えは、他にも生き生きと語られていました。いざ主人が戻ってきたとき、眠りこけているような僕であってはならないのです。もちろんこの眠りこけるというのが、身体的な休息にまつわることを言っているのではないことは明らかです。現実に、人間に睡眠が必要であることくらい、神はご存じです。
 
さあ、私たちはこの聖書の箇所をいま読んでいます。私たちは、聖書を外から眺め、あるいは俯瞰しています。そこへ、イエスの言葉が襲いかかります。「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」読者をイエスの現場に巻き込んで、イエスに出会わせるこの仕掛けは、初の福音書なのに、全く見事です。


Takapan
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