時を待つこと

チア・シード

マルコ13:28-37   


その日、その時は、だれも知らない。マルコの小黙示の最後のペリコーペでまず出された結論ですが、これにはさらに適用があります。だから、目を覚ましていなさい、というのです。ペリコーペの最初と最後がこれらで囲まれることでテーマがはっきりし、その最重要と目される中央には、神があなたがたに責任ある役割を与えていたのだ、と宣言されています。
 
終末を生きるにあたり、さしあたり、そして究極的に必要な知恵はこれなのです。これだけで私たちは命を生きることができます。それは簡単なことではありません。そのことは、眠りこけてしまう譬えの話からも明らかですし、やがてゲッセマネの園でいくらイエスが起こしても眠ることしかできなかった弟子たちの姿からも明らかです。
 
いちじくの木は、イスラエルの象徴です。そこから私たちは学ぶのです。神が創造し、導いたイスラエルの民。しかし神に背きわが腹に仕え主から離れた民。主の警告を聞かずに滅びに至った王国の運命。また、神が憐れみ救い主を与えたイスラエルの決定的な出来事。イスラエルの姿は私たちすべての人間にとり、神の出来事を覚る指針となります。
 
それは、人の子が戸口に立っていることを知る機会でもあります。創世の期にカインに対して、罪が戸口で待っていると神は告げました。アダムの根はあれど、罪の歴史は事実上ここから始まりました。「罪」の語の初出もここです。これが聖書を締め括る黙示録では、戸をたたくイエスの姿となり、最後のチャンスが示されることとなります。
 
そのラオディキアの教会へのメッセージには、厳しいものがありました。戸の外に立つイエスの時までは、この時代が滅びることはない、ならばその時がくれば滅びるという意味にほかなりません。時は来る。時代はゲネアという世代的な時を表す語。その時はホーラであり、日時の時です。時を示す、至って普通の語が使われていました。
 
しかし「その時がいつなのか」という場合、カイロスという、神の介入する決定的で特異な時を表す特別な語が使われています。日本語訳でこの差異が活かされていないのは残念です。目を覚ましていなさい、と言ったところにたいへんな重みがあります。神による神の出来事については、人が主導権をとることが一切ないということが強く表されています。
 
神の時を人間が知ることはできません。受けるのみです。できることは、備えることだけ。目を覚ましていくことだけ。これらをまとめて聖書では「待つ」と称しているケースがあるような気がします。待っていなければ、それは突然起きたものと驚きますが、待っていれば、それは当然起こるはずのことだと落ち着いて受け容れることができるのです。


Takapan
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