人の子が雲に乗ってくる

チア・シード

マルコ13:24-27   


この箇所の初めに「しかし」という語が入っているのを、新改訳2017や岩波訳はきちんと入れているのに対して、新共同訳は全く出していません。どうしてでしょう。マルコの黙示の章であり、終末の出来事が並べられている箇所ですが、マルコがエルサレム神殿の破壊を知っていたかどうかがよく議論されます。マルコが一気に書き綴ったとしての話ですが。
 
読者はこれを悟れ、というフレーズも果たして最初からあったのかどうか。後から挿入されたとしてもおかしくはないと思うのですが、私たちとしては、結果としてこれが伝わっている点を受け止めればよいだけのことです。終末の苦難の様相が具体的に語られるのも、象徴的にも見えるし、当時の常識や世界観が反映されていますから、解釈は困難です。
 
そのラストを飾るべく、天体の異常が示されます。こうなるともう人は誰も止めることができません。人の子が雲に乗ってくるという、孫悟空ばりの表現も、ひとつの絵として想像するのが精一杯です。そのとき人の子は、選民を呼び集めるといいます。イザヤやエゼキエル、ダニエルといった大預言書を踏まえ、ヨエルやハガイ、ゼカリヤといった小預言書の表現も浸かって壮大な黙示情景を私たちに見せてくれます。
 
聖書の伝える幻の総決算のようですが、当時これを聞く者はそれなりに分かったはずです。メシアがどこにいるのかを探す様子も、ありがちなったのでしょう。人の子が雲に見えるというのも、そのひとつの結末だったのです。大祭司の前に連行されたイエスは、これを口にしたために死刑への道を決定的にされたのでした。
 
イエスの十字架刑を決定づけるものの一つとしてマルコもきちんと描いており、終末風景の描写もそのために必要なものだったと言えるのでしょう。人々が天の果てにいるというのは遙か遠いことの表現なのでしょうが、四方から呼び集められるからには、神の国は確実に拡大することが見て取れます。預言書の中でもその傾向は見られました。
 
マルコはユダヤ文化の中でその伝統を踏まえ、教会に寄り添う人々の有する信仰に十分応える形で、これからの歴史の方向性を示し、信徒が何に従って、また何を希望して生きていけばよいのかを教えようとしたと思われます。人の子イエスを描くことは終末の出来事かもしれませんが、十字架を決めた言葉であった点を思い起こしたいと思います。


Takapan
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