総額の比較

チア・シード

マルコ12:41-44   


イエスの譬ではなく、見たままの言及です。神殿の賽銭箱に人々が献金をしています。大勢の金持ちがたくさんの額を入れていました。他方、貧しいやもめがわずかな小銭を賽銭箱に入れました。賽銭箱は13ほどあったようです。女性用のもあったはずですから、金持ちたちは語からしても男性を表しています。もちろんやもめは一人の女性です。
 
イエスはやもめの入れたものが、誰よりも多かったと弟子たちに述べました。金持ちとやもめとを対比するのがここでの意図であり、それはそれで結構です。しかし「だれよりも」の言葉で、私たちが比較するのは、一人の金持ちの男と、一人のやもめ、になってしまいます。本当でしょうか。「すべての人よりも多く」と訳したらどうなるでしょうか。
 
たとえば百人の金持ちが一人一万円入れていたとします。やもめは十円入れました。普通に考えるならば、一万円と十円とを比べます。しかし、「すべての人よりも多く」を総額だと受け止めたらどうでしょう。百万円と十円とになります。面積比のように、差はさらに大きくなるでしょう。そうすると、やもめの方が多いというイエスの言葉が光ります。
 
金持ちたちからすれば、生活費のうちの百分の一であったかもしれません。割合にすると1%です。しかしやもめにしてみれば、生活費を全部入れたのならば、割合にして100%です。確実に、割合としてはやもめの方が多いことになります。総額の莫大な格差が、逆転してしまいます。統計の数字のからくりに注意をする必要がある所以です。
 
でもイエスは、割合で言っただけではないと思います。そうした計算で説明する程度のものではないと考えます。貧しさの中からすべてのものを差し出すことは、幸いそのものなのであり、神の国はその人のものだとイエスは宣するからです。主の祈りを書いてはいませんが、マルコもその精神は知っていたものと推測します。貧しさに命があるのです。
 
貧しさの中にこそ、神の支配がある。賽銭箱ないし献金箱、それは私のもてるものをすべて神の前に差し出すところです。自分の力でこの世を生きることを放棄した中で、握りしめたその代価めいた金銭を手放す場です。献金となると、どうしても人間が神に献げること、神に自分が犠牲を払って献げることを思いがちですが、きっとそうではありません。
 
犠牲は人が支払うものではなく、すでにイエスが支払っているのだ、と私たちは考えます。福音書に描かれた時代には隠されていても、私たちにはもう露わになっています。隠れていたものが露わになる、真理としてそこにあります。やもめはまだそれを知らなかったはずですが、やがてそれを受けるに違いありません。私たちはこのことを知っています。


Takapan
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