神のものは神に

チア・シード

マルコ12:13-17

マルコ

ファリサイ派とヘロデ派とがどういう関係であったのか、私はよく分かりません。ここでは結束してイエスに対抗しています。仲違いをしていたグループも、共通の敵イエスを前にすると仲良くなる、というのはルカも描いていることで、ここではファリサイ派の律法重視の立場と、ヘロデ派のローマ帝国の論理とがイエスに迫っている、というふうに理解しておくことにします。
 
イエスの言葉尻を捕らえようと彼らは迫っていました。言葉尻と訳した語はロゴスです。ここはマルコですからヨハネとは関係がありませんが、ヨハネ伝でロゴスと言えば重大な概念です。なにしろヨハネによる福音書の冒頭に、イエスの姿としてロゴスが挙げられていたのですから。ロゴスなるイエスを捕らえようと、宗教的・政治的人間が迫っている図式をここに見るような思いがします。
 
イエスに向けて、ラビとは呼ばず、教師という呼び方を以て近づいてきました。教えを請うような姿勢で、長々と美辞麗句を連ねます。あなたは真理です、などとも言いますが、へつらい以外の何ものでもありません。真理に従って神の道を教えているなどと、微塵も考えていないのですから。これもヨハネ伝でしたら、真理と道とは、どちらもイエスその方を表す概念として取り上げられていましたから、もしかするとヨハネ伝の著者がマルコ伝を読んだとすれば、何かしら刺激を受けたかもしれません。
 
彼らがイエスについて「人々を分け隔てせず」と言っているのは、「人々の顔の表情を見るのでなく」のような言い回しです。人間的な視点ではそのようにするでしょう。相手の顔色を初め、服装や身分により、態度を一辺するのは、人間の得意とするところです。しかしイエスはそれをしない。ファリサイ派やヘロデ派はしていたのです。律法を守れない立場にある人々を軽蔑し、ローマ帝国の顔色を伺う権力者ヘロデの部下たちなのです。このあたり、皮肉というか、巧みな構成になっているように見えます。
 
カエサルへの税金への問いは、もちろんローマ帝国の支配を需要してしまうのか、それとも反逆するのか、の態度を暴露させるための罠でした。原文は、法的であるかどうかと問いつつ、文末は「払う? 払わない?」といやらしく迫る形になっていました。イエスから見ればこれは偽善です。新共同訳の「下心」のようなものではありません。現代語の「偽善・欺瞞」と同じ響きそのままのギリシア語です。
 
イエスは「テストするのか」と、呟いたかのように思われます。デナリオン銀貨を見せよと言い、そこには誰の肖像が刻まれているのかと問います。誰のイコンか、と。もちろん、皇帝カエサルのだという答えしかありません。そこで、あの有名な、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」との言葉が飛び出します。これには彼らも驚き入ったと記されています。
 
私たちはしばしば説教で、だから私たちクリスチャンは、神から受けた恵みは神に返しましょう、などと教訓めいた結論に導かれがちです。しかし、恵みはただ受けるだけのはずです。神に返すというのは、パウロならばガラテヤ書などで燃える怒りと共に否定した方向性ではないでしょうか。違う意味が本来あったのではないでしょうか。顔を見るというあたりに私が感じた皮肉の流れに合う解釈を、岩波訳が表に出していました。
 
「『神様』のものなら『神様』にお返し申し上げよ」という岩波訳のその「神様」とは、ローマ皇帝のことです。そもそもローマの裁判においてイエスが神の子であると称したことは、決定的な死刑の要因でした。皇帝は神の子と呼ばれ、皇帝以外の者が神の子と称した場合には、皇帝を名乗ったこととなり、また皇帝を侮辱したこととなり、死刑に処せられたのです。皇帝が神だというのであれば、その神と自称するものの像のついたものはその神の子とやらに返せばよい、と言い捨てたというのが、最も素直に読める筋ではないでしょうか。そしてこれなら、驚き入るのではないでしょうか。
 
今でも、そういう「神の子」と自称する者がいるかもしれません。そうです、私たちが、自分の腹に仕え、自分を神として高ぶるとき、イエスは今日も、自分で自分の実を刈り取ることになるのだ、と警告しているように受け止めておきたいと思うのです。


Takapan
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