イエスの言葉を熱く聞く

チア・シード

マルコ10:49-52   


バルティマイという名まで記録されています。癒しの対象としては非常に珍しいケースです。癒した記事は多いのですが、名前までは残されていません。よほどこのバルティマイという人間が、教会にその後影響を及ぼしたか、教会に連なったか、何かわけがあるのかしら、と訝しくすら思います。でもそれはどうでもよいことでしょう。
 
しかしこうした背景のところには目もくれず、今日はこのエピソードの途中から入ることにします。つまり、イエスがこう語るのです。「あの男を呼んで来なさい」と。あの人。イエスをダビデの子と呼び、憐れんでくれと叫ぶ人。物乞いをしており、盲人であることも分かっています。ナザレのイエスだと人に教えてもらい、叫んだ人でした。
 
癒されるべき人のところまで、イエスは出かけて行き、手を触れるなどして癒すという物語がよく記されていますが、このときイエスは、離れたところにいたようです。おそらく群衆にもまれて、自由に動ける情況になかったように見受けられます。動けなかったイエスは、遣いを立てて、人を呼び寄せます。神の側から人の方へ近づいていくのです。
 
「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、遣いの者は男に声をかけます。呼びかけられた者は、それに応じてイエスの許へ行きます。見えませんから、誰かの助けを必要としたのかもしれません。私たちキリスト者も、このように神の救いの計画を助ける働きのお手伝いをさせてもらえるように思われます。動くことは大切です。
 
ただ、いま私は盲人のつもりでこの物語に参与しているつもりですま。イエスには何かがあると知っています。それで信じ、叫んでみたのです。すると主からのリアクションがありました。「来なさい」ということでした。男は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスの許に行きます。もう身にまとう飾りも、恰好つけも要りません。
 
男は一種の解放を感じていました。開放感からくる喜びがあったことでしょう。沈黙と静寂の中に留まっている必要はもうありません。再びイエスが口を開きます。「何をしてほしいのか」ときました。憐れみを求めたこの男、もしかすると金を無心していただけなのかもしれません。だって、まさか見えるようになるなどと普通は思わないでしょう。
 
そこで、改めて「何をしてほしいのか」と訊かれると、男は考えます。見えるようになりたい。それだけを告げます。してほしい、とは言いませんでした。ただ、なりたい、それだけでした。それでも、ここにはすでに信仰があります。そんな馬鹿げたことを申し出ても、これまでの学者も祭司も、誰も相手になどしてくれなかったのですから。
 
やはりこの求めは、とんでもない求めです。見えない人が見えるようになるなど、およそ誰も知りえない要求です。それでもイエスは、そこにただならぬ信仰があることに、ちゃんと気づいていました。イエスは神の栄光をこういうシチュエーションでは現すことを拒みません。そして、その信仰に応えるべく、言葉を投げ返します。
 
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」、それがイエスからの今回第三の言葉でした。それは、癒すとか救いだとかいうことではなく、まず最初に「行きなさい」でした。さあ癒します、あるいは見えるようになります、そんなところではなく、「行きなさい」だったのです。「行け」なのです。約束の成就より先に「行け」と告げました。
 
疑う必要もありません。ためらうこともいりません。とにかく今ここから、行けばいい。さあ行け。これで見えるようになりました。あなたの信仰が救った。これで歩きました。どこへ行くのか。なお道を進むイエスに従ったのです。「さあ行け」と言ったそのイエスに従うことを選んだのです。イエスは今もなお道を進んで行こうとしています。


Takapan
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