死と復活の予告のリアル

チア・シード

マルコ10:32-34   


8章、9章と、イエスは自身の死と復活について語った、ということをマルコは記してきました。殺されて復活するというこれまでの二度の予告から、三度目は引き渡されるという方にシフトしているようにも見えますが、殺されるというよりも、異邦人が殺すという言い方にもなり、表現がかなり具体的になってきているように思われます。
 
イエスはこのとき、わざわざ12人を呼び寄せて話をしています。一行の旅がどういうスタイルであったのか、私はよく知りません。イエスと弟子たちは、改まった問答のほか、何気ない雑談が交わされたようには見えない気もします。それでいて、弟子たちは大胆なことを話していることもありますし、時にイエスはそれをちゃんと聞き取っています。
 
衣食住はその旅の中で、どうしていたのでしょうか。当時の人々には日常的過ぎて疑問に思うこともなかったのでしょうが、時と場を遙か離れた私たちには、不思議に思うことばかりです。その中で、こぼれてきた言葉を頼りに理解しようとしても、なかなか想像できないことがあります。もっと豊かなイメージで情景を思い浮かべられないでしょうか。
 
ここでイエスは、自分の身に起ころうとしていることとして話をしています。私たちの場合、自分の身にこれから起こると分かっていることは、とりあえずありません。分からないから、私たちが抱くのは不安です。明白に捉えられる心配という図式とは違い、どうなるか分からないからこそ湧き上がってくるのが、不安というものでしょう。
 
分かっていたなら、立ち向かう勇気が起こるかもしれません。否、逆に恐れるかもしれません。イエスはしかし怯みません。そう聖書を読むべきだとされています。でも本当にそうでしょうか。ゲッセマネの祈りは違うように思えます。三日後に復活すると言ったときのイエスの顔を想像します。私たちは、信仰を以て、想像をしてよいのだと思うのです。


Takapan
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