立ち去った男の背中

チア・シード

マルコ10:17-22   


永遠の命を得るためには、何をすればよいか。イエスに尋ねた男がいました。財を売り払い、貧しい人々に施せ。イエスは答えました。男はそれができないと思い、悩み悲しみながら、帰って行きます。マルコの採用は、マタイもルカもそれを必要と判断したことで、どの共観福音書にも掲載された記事です。重要なエピソードのひとつなのでしょう。
 
神の国に入り、永遠の命を与えられる「ために」という方向性が適切かどうか、私には分かりません。人の努力が必要であるように聞こえるからです。この男には、人への接し方も律法に対する真摯な姿勢も、悪いようなものは特にないように見えます。ただ金持ち故か、「持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい」だけがネックでした。
 
だがイエスは、「そうすれば、天に宝を積むことになる」と突き放したのです。それからさらに、イエスに従うように、ということなので、これでは従う以前の問題だ、とエントリーもされません。但し、新共同訳では、「天に宝」ではなく「天に富」となっていました。かつての「富」が、聖書協会共同訳では「宝」と入れ替えられたことになります。
 
確かにその語は「宝庫」を意味することもあります。「積む」は「持つ」という一般的な語なので、ここは「宝の倉庫を所持する」というようなニュアンスで読むべきなのかもしれません。地上の財宝はそれに交換されねばならない、という信仰が求められているというのでしょうか。そして、この一つだけが「あなたに欠けているもの」だと言うのです。
 
「立ち去った」のは、悩みつつではありましたが、イエスに従うことも永遠の命への道も断たれたのは、なんとも寂しいものです。この人を弁護したくなります。せめて、イエスがこの男を、「慈しんで」見て言ったところが、慰めでしょうか。しかし、私自身のことを思います。戒めを守っているという辺りから、この男の足元にも及びません。


Takapan
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