一つの献身

チア・シード

マルコ10:17-21   


その人は永遠の命を求めていました。関心はそこにありました。イエスを見て走って来たのです。大の男が人前で走る姿を見せるものではない、という常識がありました。ニコデモは夜隠れてイエスを訪ね、サマリヤの女は人々と顔を合わせずに済むように昼の日中に水汲みに来ました。自分の身を晒すようなことをわざわざすることはなかったのです。
 
イエスは道に出ていました。群衆がそこにいたかどうかはよく分かりません。だからもしかすると、人気が無くなったのを見計らって、この人は走り寄って来たのかもしれません。でも、弟子たちは確実にその場にいたのです。やはり人前で走ってきたという点では間違いがありません。それほどまでに、イエスに直接尋ねようとした熱意を感じましょう。
 
まずイエスに「善い先生」と呼びかけます。するとイエスはそこを直ちに突きました。神一人のみ「善い」お方ではないのか、と指摘します。なんと厳しい用法なのでしょう。しかし考えてみれば、創世記の創造の業において、神は被造物を見渡して、甚だ善かったと言っています。天地創造の主による業のみが、「善い」に匹敵するというものなのかもしれません。
 
イエスはこの「善い」を問答のタネにしようとは考えていない様子です。その人の求めに応じて、十戒を持ち出します。永遠の命のためになすべきは十戒を守ることである。但しその人は、もちろんそんなことは分かっていて守っているからこそ、イエスに対して、それ以上の切符をもらおうとしたのです。あるいは褒められたかった心理もあるでしょうか。
 
イエスは彼をじっと見つめます。イエスの眼差しが、事の運びに一呼吸置きます。しかも、慈しみをこめていたとマルコは強調しています。分かった、でもひとつ欠けているね。イエスはここでまた間を置いたのではないかと想像します。あのね、じゃあ持っている物を残らず売り払って、そのお金を貧しい人に与えなさい。宝は天に積まれるからね。
 
持っている物はもちろん財産であるに違いない。その人はそう受け取りました。当然です。さて、私は何を持っているだろう。自分のことでしょうか。悪い性質か、労力か、時間なのかしら。必要としている人に、自分の持っている物を与えなさい。ああ、それはひとつの献身なのだ。だから、ただ捨てればよいのではなくて、イエスに従うことが求められたのだ。


Takapan
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