告発と論争の先に

チア・シード

ミカ6:1-5   


主が語ることをよく聞け。聖書のメッセージで、まずぶつけられるものがあるとすれば、これではないでしょうか。けれども人は、ここから失敗しています。問題をよく読め。学生はそう言われます。本人は、ちゃんと読んでいるつもりなのです。でも、読めていません。主の言葉を聞け。本人は聞いているとしか答えませんが、聞けてなどいないのです。
 
ついに主は告発します。イスラエルと論争をするのだそうです。珍しいことだと思います。主は創造者。立場があまりに異なります。論争というのは、同じ立場で対立することではないのでしょうか。だのに、告発と論争という形で、主はイスラエルの民と向き合います。もちろん、民のリーダーたちを念頭に置いているのだとは思いますが。
 
それでも、一人ひとりへ目線を下げて、主は尋ねます。いったい主が何をしたというのか。疲れさせたなどとおまえたちが言うのは正当なのか。さあ、答えよ。あのエジプト脱出は、何だったのか。モーセとその兄弟は、主が遣わしたのだといいます。確かに、モーセにしても、一方的に主が選び、イスラエル人を集めたのでした。
 
ミカは、出エジプトの出来事に焦点を当てます。後のダビデ王の時代や、申命記改革、あるいはバビロン捕囚といった、より現実味を帯びた歴史ではありません。また、信仰の祖と呼ばれるアブラハムですが、やや親和的な物語でもありません。モーセによる出エジプトという、カナン入植の時の歴史を、ずばり中心に据えています。
 
ここには、バラクとバラムの名も挙げられています。士師記、つまりカナンに入った直後の歴史の登場人物です。カナンに定着しようとするイスラエル民族の歴史の、アンチヒーローの一人がバラムです。イスラエルの民が、その地に定着する時を焦点に当てて、民族の原点を強く意識させるようになっています。
 
主が、イスラエルの民の主であること。これを存分に知らせるために、告発し、論争します。そのために、土地の取得の時をのみ指摘したのです。私たちが、信仰生活に入ったときのことを、思い出すことがありますか。いまよりきっと、もっと純粋で、熱心だったのではありませんか。あの頃のことを、私たちは思い出す必要があるのではないでしょうか。


Takapan
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