神と偶像の境界へ
チア・シード
ミカ5:9-14
「その日になると/私は」と始まりますが、その「私」は、間違いなく「主」です。イスラエルを治める人間が現れるようなことを告げてきた中で、それでも結局は、事をなすのはこの「私」だというのです。イスラエルよ、ヤコブよ、「あなた」の中から軍馬も戦車もなくなるのだ。人のこしらえた街も砦も破壊する。人の誇る力あるものは滅するのです。
その人の精神を支えていたのは何でしょう。「呪術」であり「卜占」でした。「彫像」であり「石柱」でした。全て「自らの手で造ったもの」です。そして自ら造ったものに自ら「ひれ伏す」のです。人が拝しているものは何でしょうか。自分が自分の安心のために造り出したものではないでしょうか。聖書は、そこを追及します。
しかし、現代思想では、その聖書に対してすら、人は同じ問いを差し向けます。聖書の神とやらも、結局人が造ったものではないのか、と。人が自分の平安のために、ありもしない神を想定し、それを比した。拝んでいるという図式は、ここに描かれているのと変わらないのではないか、というのです。論理的に、その指摘は正しいのかもしれません。
イザヤの預言するものを、神を拝する者にそのまま適用するわけです。ところがそうすると、預言の正しさを用いて、当の預言の誤りを証明しようとしているようなことになります。そこにも、論理的な誤りが生まれます。この預言は、「アシェラ像を引き倒し」てしまうことを宣言しています。「彫像と石柱を絶つ」ことを明らかにしています。
聖書は、決して象徴的・抽象的に神を想定することを以て神を設定するようなことはありません。「証明」云々というレベルではなく、「神はある」というところから先ず始まっていることを「証言」しているだけです。すでに存在しているものの存在証明をわざわざすることなど、ナンセンスであるわけです。
神は証言する対象ではあっても、証明する対象ではないのです。聖書に、神の存在を証明するような件はありません。しかし人間は、後の時代に「神学」駆使し、神の存在証明をいろいろ考え出しました。最初からこの前提を疑ってかかりました。でもそこに映し出された像は、虚像でした。絶対の事実の前に、そちらこそ空想の産物なのでした。