平和の力

チア・シード

ミカ5:9-14   


イスラエル民族は、いつかその日勝利する。そのも、世にある軍事力によってではなく、主の力によって。ミカが告げている預言は、つまるところ、こういうことなのです。敵する者へ、ただ手を挙げるだけでよい。アマレク人との戦いで、モーセが手を挙げている時にはイスラエルが勝利していたということを思い起こしましょう。祈りの手を下ろさないことが肝腎です。
 
その日、人はもう軍備を必要とはしなくなります。馬も戦車も消えでしょう。要塞すら役立たず、現実の軍事力は、何ら力を発揮しないのだといいます。しかしまた、現実の世界の争いを支えているものは、実は軍事力だけではないのです。ミカは、魔術や占いを断つのだとここで言っています。軍備の建前を掲げる者たちこそ、陰では神々を頼っているものなのです。
 
古代は特に、戦争とは神々の戦いでもありました。戦勝のために神々に祈り願い、そして破れた国の神は役立たずで死んだこととされたのです。負けた側の神が消滅するという形で、人間の歴史は進んできました。イスラエルがその例外となりました。敗れたのは神が悪いのではなく、神に従わなかったイスラエルの民の悪の故だ、としたのです。
 
近代文明の中での戦争は、それとは無縁でしょうか。いえ、なおも神的な存在を頼っているところは見られないでしょうか。戦勝祈願は少なくとも太平洋戦争のときの日本はやっていました。アメリカでも教会がそのために祈るといった背景がありました。私たちは常に何かを偶像として立てていなければ心が安らぐことがないのです。
 
何も、石柱のようなシンボリックな存在でなくてもいい。太平洋戦争のときのように、国家そのものが偶像として君臨することもあります。その中核には天皇という、いくらか目に見え存在が置かれますが、何かしら拝むべき対象があれば、精神的支柱となりうるのです。
 
主なる神は、こうした霊的な惑わしを根こそぎ片付けます。役立たせることのないように壊滅させるのです。それから、その神の力に従わない者へは、神自らが復讐を遂行します。パウロも、復讐は人でなく、神がするものだと告げていました。むしろ、裁きを人がなそうとするところにこそ、人が神になろうとする欲望が蠢くものと思われます。
 
ミカの預言は、アッシリアによる北イスラエル王国の滅亡の頃のものであると目されています。バビロン捕囚をまだ知らない時代です。この章でベツレヘムが取り上げられていることから、クリスマスの出来事のためにどうしても注目されるきらいがありますが、平和をもたらす預言である、という点をもっと弁えて然るべきではないでしょうか。


Takapan
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