終わりの日に止む戦い

チア・シード

ミカ4:1-4   


ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世に、預言者ミカは南北イスラエルの都についての幻を与えられます。いまその終わりの日についての幻が、私たちの注目点です。主の民が、まるで遡る川のように連なり、山の上の都へ登っていくという絵図です。なんとも印象的な画です。そしてダイナミックな表現です。
 
ミカの見たものは、必ずしもイスラエルの民だけではないように感じられます。主の山、ヤコブの神の家に登ろうとするのは、いろいろな国民となっています。主の与えた道がそこにあり、その道に私たちも、そのいろいろな国民のひとつである異邦の民の人間として、歩ませてもらおうではありませんか。
 
イエスがエルサレムで教えをなすとき、ミカのこの画を思い出すこともできました。イエスの現れは、ひとつの終わりの時の出来事であったからです。時のひとつの区切りとして、そこから神の国は現実のものとなりました。神の支配の時代が始まったのです。ある種の終わりの時が、イエスの現れを以て始まるのでした。
 
しかしやがてその支配が満ちるとき、本当の裁きが成し遂げられることになります。種が力を下し、国々の間に決定的な裁きを入れるということは、そこから先はもう争いがないということです。裁判が終わってから訴訟を争うことはありません。それを終わらせるのが裁判というものです。主の裁きは確かに、地上の争いに終止符を打つものなのです。
 
そこで印象的なフレーズが目に留まります。人間の戦争の道具としての槍はもう不要になり、それは作物を育てるための収穫の道具としての鎌に打ち直されます。もう剣を上げて戦いを挑むことはなくなり、そもそも戦いを学ぶ必要すらなくなってしまいます。赤子が獅子と共に寝るような自然界の不思議さと異なり、人為的で意志的な営みが描かれています。
 
この平和は、ただ人が武器を捨てれば事が済むというものではありません。この平和に至るまでに戦いが重ねられました。だからといって、戦争を肯定する気にもなれません。暴力的な戦争がない中でもなお、心の刃が音を立ててかち合っています。自我という武器を捨てることができるのかどうか、私たちはいまここにおいても問われ、求められているのです。


Takapan
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