終わりの日に初めて見る

チア・シード

ミカ4:1-5 


ミカ4:1-3は、イザヤ2:2-4と殆ど同じです。預言書ミカ書とは言いながら、ミカ本人の言葉は3章まであたりに過ぎず、その後は、他の預言書の中に実現されていくミカの思想を踏まえて記されているのではないか、と解釈する人もいます。ユダが危機に陥り、また捕囚の期に、ミカの預言をかみしめた者が、ミカ書の一部に組み込んだのではないか、と。
 
ここで「終わりの日」がいきなり突きつけられます。世界の終わり、審判の日、という受け取り方もできますが、何かしら主が、人間の歴史の中に介入する時を示していると考えることも可能です。人間には計算できない、歴史の中への神の関わり。それは、イエスの受肉もそうでありましたし、十字架と復活もそうなのでしょう。主の出来事が生じ、耳のある者はそれを聞き、また目撃します。
 
描かれるイメージは山です。エルサレム自体、山地に聳える要塞でした。ヨルダン川へ下る坂は急で、イスラエルを見渡すような場所に、神殿が輝くという構図になっていました。いえ、ほんとうに山の頂にあるのは神殿ではなく、主ご自身であったはずです。どの峰よりも高く聳えてある。すべての民がその下にひれ伏し、さあ主に出会うために主の山へ登ろう、と声を掛け合います。
 
巡礼の民でもありましょう。力ある神のほうにしっかりと顔を向け、そちらに歩みを進めて行きます。その道が示される故に、私たちは歩むことができます。ここに、クリスチャンは、我が身への主からの呼びかけを感じることは自然なことでしょう。神のことばがそこから発され、それを聞き、それに従います。主が、その道を示すのでなければ、私たち自らの思いでは分からないままでありましょう。
 
主の裁きがそこからすべての国々に及びます。人間世界で力を誇っていた国家・大帝国ですら、この主のことばの前には沈黙せざるをえません。イザヤ書にもあったように、武器は農作業の用具に変わり、戦うことを学ぶ必要がなくなります。それは人間の理想の世界かもしれません。絵空事のような世界です。しかしだからこそ、これは人間から出たものではないと言えるでしょう。神から与えられた幻なのでしょう。
 
ぶどうやいちじくについて触れる言葉が続きます。これらはイスラエルを象徴する植物であると同時に、平和をも示していると理解できます。ナタナエルを読んだヨハネ伝1章の記事が思い起こされます。それは「神は与える」という意味だといいます。そのナタナエルはいちじくの木の下にいました。イエスはその本質を垣間見せてくれたのですが、そんなナタナエルですら、もっと大きなこと、天が開かれる時はまだ知らないと告げられました。主の日、主の特異な時に、人は初めてそれを知ることになるのです。


Takapan
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