アロンの役割

チア・シード

レビ8:31-36   


アロンの子らを聖別する指示。世のものとは違い、一線を画された者として、分かたれた者としておくのです。一つの儀式に過ぎないかもしれません。しかし分けることの意識は、大きな意義をもつものです。聖書が聖書たる所以は、この分けることにあります。但し、ファリサイ派の分け方は己れの義を主張したため、別の困難をイエスが指摘します。
 
このような罠は、いまの私たちも免れてはいないと見るべきでしょう。クリスチャンと自称していても、いつでもすぐに、ファリサイ派の仲間になってしまうことができるのです。このアロンの子らは、会見の幕屋の入口で肉を煮て、火で焼いたパンと共に食さなくてはなりません。そしてその後一週間にわたり会見の幕屋の入口に留まることになります。
 
モーセがこのように命じたのでした。主と会う幕屋は、後の神殿の至聖所にあたります。究極の、分かたれたところです。モーセがそこで主と見えるということは分かっていますが、アロンは直接主と会見するわけではありません。モーセはエジプトから脱出するリーダーでしたが、イエスの幼いときの出エジプトはわざわざモーセになぞらえています。
 
私と父とは一つだとも言ったイエスは、明らかに旧約のモーセを思い出させる形で、メシアとしての役割を果たした一面があります。そのモーセが命じたということは、イエスの言葉を知る者にとっては、ここにイエスの声を聞くことを試みてもよいと思われます。任職式そのものが私たちとどれくらい関わりがあるのかについては確かに分かりません。
 
しかし、留まって主への務めを守ることについては思うところがあってよいでしょう。そうすれば死ぬことがないのです。私たちはアロンと違うのでしょぅか。アロンはモーセの言葉、神からの言葉を右から左へ拡声する担当でした。私たちは、イエスの言葉を同様に右から左へと流し広める担当であるとは思いませんか。


Takapan
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