十分の一を外れる規定

チア・シード

レビ27:30-33   


いわゆる什一献金の一つの根拠がここにあります。什一献金というのは、教会員は、収入の十分の一を献金として献げなさい、ということです。レビ記という古代においては、地の産物つまり人が育てた穀物などのほか、木の実や果実のように収穫するだけのものにしても、その十分の一は主の聖なるものである、としています。
 
牛や羊といった家畜の動物たちにおいても、十分の一の数が主のものだと言います。牧者の杖の下をくぐる十番目ごとに、主への献げ物としなさい、というものでした。教会はこれを告げ、献金を信仰の重要な行為として伝えます。産物や家畜と現代の金銭とを同一視してよいかどうか分かりませんが、この十分の一という割合は聖書に時折出てきます。
 
アブラハムがメルキゼデクに献げた例や、マラキ書において主を試みよと告げたものが思い起こされるでしょう。レビ記からの説教者も引用します。逆にいえばあまりたくさんの例がないのです。福音書でも、ファリサイ派や律法学者が、十分の一をきちんと納めていることはイエスも認めています。そしてそれを蔑ろにするなとマタイは注意を促します。
 
イスラエルにとり、十分の一の献げ物は、基本的で廃棄してはならない掟であったと思われます。ただ、ここで気づかされたことがあります。「どうしてもその十分の一を買い戻したければ」という但し書きです。主の聖なるものとして献げよという命令に対して、それを拒むケースが想定されているのです。しかもそれを悪だと裁く様子はありません。
 
買い戻すことは認められているような書きぶりです。特定の産物を、その産物のままに納められない場合があるとして、許されているのです。ただその十分の一に加えて五分の一を乗せれば買い戻せるのだ、と。この五分の一の構造については、どの説教者も触れることがありません。私は知りたいのですが、どなたかご存じでした教えてください。
 
もしかすると、貨幣経済の中で、現物ではなく貨幣で支払うという換え方なのでしょうか。金銭ならば多少上乗せが必要だ、という意味かもしれません。牛や羊についても「もし取り替えるなら」と譲歩がなされています。十番目に美しいものが当たったとき、代わりにみすぼらしい動物と取り替えるようなことをするな、ということなのでしょう。
 
実際に取り替えるような情況があったからこそ、こうした規定が見えるのだと思います。しかし今度は両方献げよというのですから、貨幣の代行の様子は見えません。が、とにかく取り替えることを罵るような気配はありません。淡々と、どちらも献げることになるのだぞ、と命じてきます。それでも、人が取り替えるケースを、とにかく認めています。
 
取り替えて買い戻す。私たちは、イエス・キリストにより買い戻された者です。おまえは死ななければならないが、キリストにより買い戻された。だから死ななくてよい。但し、おまえもキリストも、どちらも聖なるものとなるのだ。殺すとは言われていません。主の聖なるものとなるのです。共にいるイエスの故に、聖なるものとされるのです。


Takapan
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