不可解な奴隷所有

チア・シード

レビ記25:39-46   


これら律法にある「もし」というのが、架空のことであるようには思えません。それが現実にあったからこその規定であると理解します。身売りがあったのです。ここに置かれた法は、奴隷に関するものです。異邦人は奴隷として使ってもよいし、寄留者の子もそうしてよく、イスラエルの子孫がずっと彼らを所有し、働かせ続けることができるといいます。
 
他方、同胞イスラエル人同士では、互いに過酷に扱ってはならない、といいます。ここだけしか見ないと何か美しい規定のようですが、異邦人や寄留者もその子孫も、過酷に扱っても問題はなかった、ということになるわけです。そもそも奴隷というのは、具体的にどういう存在であったのか、いまの常識とはまた違うものと思われますけれども。
 
考えてみれば、現代はまたこれとは違う様相で、奴隷状態が存在するとも言えそうです。イエの奴隷、国家の奴隷、会社の奴隷、あるいは何らかの意味で自分の奴隷、という深いことも考察の必要があるかと思います。いえ、昔の奴隷そのものが現代にもあることに気づくならば、まことに胸が痛くなるものです。
 
先祖からの所有の地に帰る、ということの実態が、私には十分イメージできないでいます。その生活感、思想を生む基盤が、どうにも分からないのです。ただ言葉だけが、こうして渦巻いているばかりです。イスラエル人は、所有の地に戻ることができるのに対して、異邦人などはイスラエル人がそれを所有することができるというのです。
 
一体、所有の地とは何でしょう。キリストを通して見る風景では、私たちは、この世では寄留者だと自覚しました。私たちはキリストの救いによって神の国を与えられただけです。神の国に、私たちは還ることが許されます。その私たちが、神の国をまだ与えられていない人々に呼びかけて、そこへと誘うことは、続けなければなりません。


Takapan
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