不合理な背景のさらに向こうに
チア・シード
レビ25:35-38
寄留者や滞在者を厚遇する文化が、ありました。中東では、一般にそうだったといいます。結構なことです。ここでは、それと同じようにせよ、と別の対象について言っています。貧しい同胞のことです。困窮した貧しい人にも、寄留者と同じようにしたらよろしい、というのです。これも、助け合いというか、麗しい文化であることに違いはありません。
けれども、律法から理解するに、同胞の中に奴隷はいなかったはずなのですが、現実には同胞の中に奴隷がいたのではないか、という疑いが、ここからも発するように見受けられます。また、天引きしたり、利益を得たりしてはならない、などとわざわざ書かれているのは、そうしたことが実際に行われていたからであるはずです。
法的に抑えられていたとしても、事実それはあったに違いありません。これでは、寄留者に対する以上に、悪い扱いではないでしょうか。奴隷は異邦人だけ、という条文があったはずなのに、やはり実情は怪しいものです。しかしまた、こうした律法の規定は、法という呼び方になっていますが、罰則規定のないものが多いのはどういうわけでしょう。
これを破ったらどうなるのが妥当なのか、定かでないものが多すぎるのです。さらに、あなたのもとで暮らせるようにしなさい、と繰り返されるけれども、どのようにして暮らせばよかったのか、よく分かりません。イスラエル全体というよりも、個人としての「あなた」のように見えますが、天引きや利益がしつこく繰り返されているわけです。
こうしたことが日常的な行われていたことが、逆に懸念されます。ここにあるような命令は一方的なものですが、その結びに、主が宣言するところがあります。「私は主、あなたがたの神である。私はあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるために、エジプトの地からあなたがたを導き出した」、これは大きなポイントになります。
主は、カナンの地を与えたのです。もちろん先々のこととの想定ですが、エジプトの地からあなたがたをそこへ行くために導き出したのです。誰もが同じように、エジプトから脱出させられたのです。その点では誰もが平等でした。だからこそ、互いに思いやり、助け合うことが必要だったに違いありません。現代にもこの精神は、生かされるはずです。