畏るべき業

チア・シード

レビ25:23-28   


法律的思考のできない人間として、私には、こうした律法の規定は実に難解に覚えます。土地を売るということは、本来イスラエルではありえないことだったはず。土地は主のものであり、主から賜ったものを他人へ売却するなど、考えられないことではないでしょうか。ナボテはそう言って、アハブ王の背後にいるイゼベルの企みにより殺されたのです。
 
でも、何らかの人間的な事情があることを、律法は認めているように見えます。貧しさの故に土地を売るケースが想定されているのです。それでも、「あなたがたの所有地においては、土地を買い戻す権利を認めなければならない」のですから、土地を売ったとしても、それを買い戻す権利は必ず残っている、とここには書いてあるように私には読めます。
 
貧しさから土地を売った人がいるとします。しかし誰か近親者がいて助けてくれたならば、土地を手放さずにすむでしょう。今すぐに誰かが買い戻してくれるようなことがなかったらどうか。やがて自ら財産を回復して、買い戻すための額をつくることができたなら、拒むことはできないと言っています。でも、実際難しかったかもしれません。
 
このとき、何年か経っているとします。その年月分は、買った側の益となります。買い戻すならば、その分を差し引いて、残る分を返済すればよい、という規定は現実的です。その土地は、元の人の手に戻ることになります。でも、ついに返済、つまりそうした買い戻しができなかったとします。恐らく実際はこればかりだったのではないでしょうか。
 
そのとき、ヨベルの年があるのです。ヨベルの年には、そうした約束はすべて無きものとなりますから、売った土地は、あの貧しかった売り手のもとに返却されることになるわけです。ここに書いてあるのは、そうしたことではなかったか、と法律に疎い私は読んでみました。つまりは、ヨベルの年の効力を明らかにして説明しているのではないか、と。
 
驚くべき、ヨベルの年という規定です。社会秩序が、よくこれで保てるものだと思います。これが神の知恵であるなら、まさに畏るべきです。確かに私たちは、イエス・キリストによる贖いの業に、驚嘆するよりほかありませんでした。十字架を見上げむせび泣いた、あのときの驚きと感謝と、神への誓いの場に、いま再び戻ることができますか。


Takapan
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