空しい苦難

チア・シード

レビ25:18-22   


「この地」が想定されているのは、やはりカナンの地が前提されているからにほかなりません。そこでは、安らかに済むことができる、というのが、最大の報いだったと見るべきでしょう。平安に暮らす、これに勝る恵みはありません。人が平穏無事で生きていられるというのは、かつての時代には、並大抵のことではなかったことでしょう。
 
情報が発達する以前は、どこで何が起ころうと知られることがありませんでした。世論などできません。今から見ると理不尽極まりないことも、当事者にしてみれば仕方のないこと、当たり前のことだったのかもしれません。私たちの感覚を基準にして、昔の人の考え方や判断をとやかく問題視するようなことは、控えるべきです。
 
いつでもどこでも、苦しみというものはありますから、ブッダの四苦八苦も現代人には響きます。しかし、それにしても生きているだけで平和で尊いというような、この感覚は、平和を当然とする私たちには、同じようにはもてないのではないでしょうか。それがようやく、他国の戦争の報道を受けて、少しばかり疑念をもつようになりました。
 
主の掟を実行し、主の法を守り行うことがなくても、多数がさしたる不幸に見舞われず、平和に暮らしている国です。生きるだけで厳しいような環境のことを想像できずに、こうすれば安らかに住むことができる、などと呑気に伝道できるのかどうか、たいへん怪しいものです。人間苦しいものです、などと語り始めても、空々しいだけかもしれません。
 
しかも、そのメッセージが、その苦しみからの助けは、という路線で進むならまだしも、たんなるメッセージの枕詞程度にしか用いず、本当に苦しい人の助けになる言葉を語りはしないのであったら、そんなキリスト教には、何の魅力も感じられないでしょう。なんとなく「苦難の時代」だと持ち出すだけの挨拶は、要りません。
 
かの律法は、安息の年の心配を解決するような説明が入っています。安息年は種も蒔けません。安息年が明けて翌年に種蒔きをしますから、収穫はさらにもう一年先となります。つごう3年分の収穫が、安息年に先立ち与えられるという配慮がなされています。これは実際的な配慮ですが、何かしら必要は与えられるものと期待したいと思います。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります