安息の年について

チア・シード

レビ25:1-7   


ひとが、神の安息日に倣い、7日目に休むことを十戒で定められたように、土地もまた、7年目という区切りによって、安息を得るものとされました。人格のない土地にもまた、休息が必要なのか、不思議です。けれども、休ませるという考えは、理に適っています。今も普通に輪作をするというのも、これと同様、土地を休ませる目的があります。
 
レビ記は、出エジプトの旅の途中での出来事と、律法とが描かれている建前ですから、カナンの地での律法が並べられるのは、無理があるのは確かです。でも、編者は構わず続けていきます。カナンの土地での農業のあり方が細かく規定されます。6年の間は、普通に生産と収穫が行われますが、7年目は土地に完全な安息がなければならないといいます。
 
主の安息とも呼ばれるものです。剪定さえ禁じられるというと、生半可なことではありません。種は蒔かないといいますから、作物は得ることができないようですが、何かしら人の手によらず飛んだ種があるとすると、いわば自然に育って実るというケースがありうるでしょう。レビ記はそこまで想定しています。というよりそれが日常でしょうか。
 
しかし、それを刈り入れてはなりません。実ったぶどうを摘み取ってはなりません。完全に放置です。仕事をしないのです。ところで、この6節からの訳が異なる聖書があるらしく、異なる解釈もあるようです。安息の年、土地や木に手入れをしなかった年の収穫は、商売向けでなく、純粋に自分たちの食べ物として受け取ってよい、とこの訳は言います。
 
すると、安息の年には、刈り入れまではやってよく、それを皆で食べよというように読めます。でも、他の訳では、土地を休ませることでリフレッシュし、再び生き生きとするというのならむしろ人のためにも益となるのだ、と述べているように読めます。ヘブライ語の訳は難しいものです。もっと生活レベルでの文献が紹介されてほしいと思います。


Takapan
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