当たり前ではない恵み

チア・シード

レビ23:10-14   


刈り入れた最初の麦束を祭司のところに携行せよ。これを主の前に差し出すのは祭司の役目です。安息日に、ではなく、平日にです。その時小羊を焼き尽くすいけにえとします。それから穀物を、火による献げ物として宥めの香りとします。新しい穀物は、まずとにかく初めに主のもとに持って行くというのが律法の規定となっています。
 
与えられた土地で刈り入れた場合にこのようにする、と決められていました。祭司として私たちは、やはりイエス・キリストをイメージするとよいかもしれません。そこからまた五十日を数えたら、新しい穀物の供え物が必要です。種の入った二つのパンが主への初穂となります。キリストは私たちへ希望として与えられた復活の初穂なのでした。
 
このパンと一緒に、小羊や牛などが焼き尽くす献げ物として献げられます。このようにして献げ物の規定が細かく記されていますが、この土地での初物の扱いについて、もうしばらく立ち止まってみたいと思います。研究者が調べると特殊な意味合いが分かるかもしれませんが、今は素人目で直感的に眺めてみることをお許しください。
 
土地がすでに与えられているというシチュエーションは、神の国がすでにここにあるとでも言いたげです。私たちはそれを喜びましょう。モーセがこれを書いたかどうかは別として、こう書かれてある以上、私たちはまずこの土地の所与を感動を以て、キリストを思いつつ受け止めてみようではありませんか。こんなにもうすでに恵まれていたのだ、と。
 
次に、主が与える地に入り、刈り入れをするのだと言います。簡単に言いますが、刈り入れることができるほどに、まずは実っていることに注目しなければなりません。新しい土地をどう扱ってよいか不安だった入植当時に、刈り入れができたというのは、素晴らしいことではないでしょうか。まず実りが与えられていることは、驚きではないでしょうか。
 
初めての土地で作物が順調に育ち、収穫できると言うことは、決して当たり前とは言えないのではないでしょうか。十分献げ物ができるほどの収穫が与えられました。このことへの新鮮な驚きと感謝を噛みしめたいと思います。ただ、本当に生活に苦しんでいる人々がこの社会にはいます。私たちの献げたものがその人々に届きますように。


Takapan
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