あなたは恵まれている

チア・シード

レビ19:9-10   


「聖なる者となれ」との掛け声と共に、立て続けに命令が飛んできます。父母を恐れ、安息日を守り、偶像のもとへ行くな、と十戒のベースを押さえていくようにして、いま「土地の実りを刈り入れる場合」の規定まで来ました。ここにしばし留まりましょう。そしてまず、刈り入れができる状態にあるということを、素直に喜びたいと思います。
 
作物をこしらえようとしても、できないことがあるでしょう。天候、疫病、また人間自身の健康や財産、その他様々な情況が、十全に備わっていてこその収穫であると思うのです。実りへ至るまでの手入れ、労力、すべてのことが、実りという恵みへつながってきたのです。しかも、人は実りそのものを創造したというわけではありません。
 
実りは神がもたらします。神の恵みであるのです。だから、己れが労したのだという意識で、隅々まで刈り尽くすことをするな、というのは尤もなことです。落ち穂を拾い集めてはならない、というのは、中東の知恵とされていますが、凡ゆるものが恵みとして与えられるならば、それは至極当たり前と考えなくてはならないでしょう。
 
ぶどう畑の実を摘み尽くすな。落ちた実を拾い集めるな。それは、自分の土地を持てない人たち、寄留者のためです。貧しい人たちのためにあるものなのです。だとすれば、命じられているその人は、貧しい人ではないわけです。なにより、イスラエルの民として土地を有っているわけです。いま荒野で言い渡したという背景には目を瞑ることにして。
 
隅のもの、落ちたもの、それらは土地の所有という立派な権利を与えられた者が、そこまで独り占めしてよいものではない、というわけです。あの百デナリを貸した者が、実は一万タラントの借金を免除してもらった直後であることをすっかり忘れてしまっていた、という話が思い起こされます。私たちは、巨大な負債を赦されたものであるはずですから。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります