それでも絶望に沈まない

チア・シード

哀歌3:1-27   


一般に「エレミヤの哀歌」とも称される文書です。預言者エレミヤが叫んだともとれるような、荒廃したエルサレムの惨状を描いているからです。この箇所の次には、「自分を打つ者に頬を差し出し/そしりを十分に受けよ」(3:30)と、イエスの教えのようなことへ至ります。これを知っておかないと、哀歌3章は絶望で終わる文章と見えるかもしれません。
 
アルファベットによる詩が、いっそう言葉を冷たいものにさせるかもしれません。「私は主の怒りの杖で苦しみを受けた者」という定義から始まり、私は主によって一日中責め立てられていることが記されます。骨すら砕かれ、苦難と辛苦に苛まれます。そこは闇。主の築いた石垣により私は逃げられなくなります。叫んでも祈りを主は聞いてくれません。
 
よく見ると、実のところこれらの出来事は基本的に「主」が主語になっています。私に起こったことは、すべて主がそうなしたものだ、という書き方をしているのです。どんな目に遭おうとも、それらはすべて主が主体となっていて、私はそのような主と関わりを絶つことができないでいるのです。ということは、私と主との関係は、確かに存在しています。
 
私は主とつながっており、その関係は切れることもなく、揺らぐこともありません。その中で「主は私を道からそらし/引き裂き、見捨てられた」とまで言っています。それなのに関係は切れません。私が「笑い物」となっても、「嘲りの歌」となっても、そうして「魂は平和を失い/幸福を忘れてしまった」のであっても、そうなのです。
 
呆然とし、希望を失った詩人ですが、まださらに祈ります。思えば「栄光は消えうせた」と言うためには、かつて栄光が確かにあったはずです。「平和を失い」と言えるからには、平和がかつてあったはずです。「幸福を忘れてしまった」とは、一度でも幸福を味わった者でなければ、口にすることはないでしょう。幸福を知っている者の言葉です。
 
「待ち望む」私は、歌います。「主の慈しみは絶えることがない」と歌います。「真実は尽きることがない」と叫びます。主を待ち望み、主に希望をおく者に対して、主は「恵み深い」のです。だから詩人は、消えた希望を、それでも主に置きます。闇の中にいても、主を探し求めます。救いを待ち望むことは、いつでもまだ、可能なのです。


Takapan
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