いま哀しみの歌を私の声として

チア・シード

哀歌3:19-24   


エルサレムをシオンと呼び、その惨状を嘆く詩人の心の全体を見渡すことも、もちろん大切です。アルファベット順に頭の文字が並ぶ独特の技巧で綴られた詩であることを踏まえ、その背景から味わうのが本当はよいはずです。が、取り出した言葉のみに注目し、この言葉が今ここに生きていて自分が呼びかけられているものとして受け取ってみようかと思います。
 
かつて主に祝福を受けていたところから、極まりない不幸のどん底に陥ってしまったことを嘆きます。でも自分でそのような自分ばかり見つめていたいとは思わないでしょう。私は、神の視点から見るような真似はいましたくないと思います。私はこの私のまま留まっていましょう。苦しいけれど、その苦しみの中の私を、主はご存じでしょう、と問いかけます。
 
どうぞ今主の眼差しをここに向けてください。私は傷ついていて、羽ばたけないのです。あの辛い時の経験を思い返します。私であるそのままに思い返し、自分と神との関係を顧みることにします。あのときには主の慈しみがありました。これからも、今もそれはあるに違いありません。そうだ、待つことだ。主は来る、きっと来る。私にできるのは待つことだけ。
 
それは、主の慈しみは終わらないからです。私は再び朝を迎えることができるでしょう。朝毎に、神の恵みは注がれるのです。日々私は主の真実を仰ぎ見ます。確かにそれを受けており、ここで感じているのですから。主を待ち望む者は新たに力を与えられます。待つこと、それは自分の手で何かをしなくはならないと思い込む者にはできないことです。
 
自分の思い描いたシナリオの通りに人が、世界が動かないと苛立つ者にもできないことです。人どころか、神ですら、自分の思いのままに操ろうと構えている者さえいます。わがままを実現してきた歴史を現代人は誇るかもしれません。そういう者が陥りやすい罠であり、罪であると言わざるをえないでしょう。
 
神よなぜ、と問うのは、神に向いていることだから、それはそれでよい、という考え方ももちろんあります。しかし、同じその言葉でも、旧約の人たちと私たちとは決定的に違うところがあります。イエス・キリストがはっきりと、神と自分との間にいるという点です。同じ旧約の言葉でも、それは読む度に新しい命を注ぎ込んでくれることでしょう。


Takapan
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