旧約時代の方法で主を信頼すること

チア・シード

哀歌3:1-26   


なんとも陰惨な光景の描写に、気分が悪くなってきます。現実ですから目を背けてはいけませんが、筆舌尽くしがたいこの惨劇に、返す言葉もありません。昔の戦いと征服の中にあったものを知ろうとしないで、イスラエルの歴史を云々する視覚はありますまい。哀歌は、最初の言葉が英語のHowのような語で、それがヘブライ語聖書の書名となっています。なんたることよ。
 
廃墟となったエルサレムを前に佇む愛国者がここにいます。古来伝えられてきたエレミヤのものであるかどうかには疑問が呈されています。エレミヤは、遠くない将来に国土が回復する希望をもっていました。それでも国が破れていく有様を目撃していたわけで、時代的には重なっていると言えましょう。
 
一つひとつの悲嘆の言葉には、わずかな想像力をも閉ざさないとすれば、息苦しくなってくるほどの悲惨な場面を見ます。筆者はやはり預言者と呼んでよいかと思いますが、この仕打ちを主からのものと理解していることは確かです。人を苦しめるのは神ではなく悪魔だろう、と私たちは考えがちですが、聖書はそんな現代人の言い訳を打破します。
 
無主語の受動的表現は、基本的には神を主体とします。時に悪魔が主体である場合もありますが、そのときにはもっとはっきり分かりやすい場合であると思われ、概ね神からのものであると読んだほうが自然であるように考えられます。私はこの仕打ちを心して受け、忘れないでいる必要があるとしましょう。苦汁を飲むとき私たちは、その味わいを哀歌のままに噛みしめたい。
 
なおも待ち望むという心は、どこから生じるのでしょう。痛めつけられてきた中で、そこから目を背けず主を見上げる信頼を、どうやって得ているのでしょうか。イエスを通じてそれができる私たちちは違う時代だったのです。それでも慈しみと憐れみが続くことへの信頼がありました。イエスという保証がなかったにも拘わらず。この信仰は見上げたものです。
 
23節にある神の真実(エムナー)は、ギリシア語ならピスティスでしょう。神が真実であるというのは、誠実である、あるいは信実という語で表現する意味がこめられています。ひとは神に待望し、望みを置きます。主の救いを願い、救いは主にあることに堅く留まります。旧約聖書が積み重ねてきた信頼の層を、今こそ掲げるべき時だと捉えているのです。


Takapan
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