従うことの難しさ

チア・シード

ルカ9:57-62   


ある人がイエスに言います。イエスが行く所、どこへでも従って行く、と。これに対してイエスが言います。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と。従ってくることへの警告を発したのでしょうか。生半可な気持ちで軽々しく「従う」などと口にするものではない、と教えたということなのでしょうか。
 
「どこへでも従って参ります」とは、文字通りにはできないはずのことです。イエスの場合は、特にそうです。十字架の死へまで同行するということは、誰ひとりとしてできなかったのです。しかしイエスはこの後、別の人に「私に従いなさい」と呼びかけています。人にはできないことなのに、我に従え、とはどういうことなのでしょうか。
 
生き物には塒(ねぐら)というものがそれぞれあります。安らぐ場所を、それなりにもっています。けれどもイエスには、それがありません。強いて言えば、十字架の上で頭を垂れたとき、そこにイエスの一つの安息があった、と見る人もいます。しかし、真の安息は、神の国を待ちしかないでしょう。但し、神の国へ入るイエスは、復活を経ていました。
 
復活の前には、死があります。イエスは死を経験してこそ、復活したのです。人もそこに与るためには、死を経なければなりません。生命としてというよりは、霊的に死を経るのです。イエスは、威勢のいい最初の人ではなく、別の2人の人物に、従え、と声をかけました。すると、父を葬ることや、家族に別れを告げることが優先される態度をとりました。
 
イエスはここで2人に、「神の国にふさわしくない」と厳しいことを言いましたが、葬儀や肉親への別れの言葉まで退けるとは、なんとも冷たい態度のようにも見えます。但し、即座に従わなかった2人を見ると、私たちは思い起こします。ペトロたち漁師や収税所のマタイは、こうした断りを一切言わず、直ちに立ち上がりイエスに従いました。
 
それこそが「神の国」にふさわしい、ということを聖書は言おうとしています。父の葬儀を口にした人に対してイエスは、「しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい」と命じました。従うな、と言ったわけではありません。私たちもここから出て行って、神の国を大いに広めようではありませんか。変に振り返らず、前を向くのです。


Takapan
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