病を癒やすためにこそ

チア・シード

ルカ9:1-6   


病気を癒やす力と権能をイエスは弟子たち十二人に与え、病人を癒やすために遣わしました。住人を病気を癒やします。神の国、福音を宣べ伝えたところにこそ注目すべきなのかもしれませんが、それよりも病気について触れる回数のほうが記述が多いことに驚きます。この病気とは、人の手によってはなかなか癒やされないタイプのものでしょう。
 
病気は原因も分からないことが多く、治療法は偶然か経験知に基づくものだったと思われます。一寸した風邪のことをわざわざ「病」とここでは言わなかったはずです。治せないもの、治し方が分からないものを指すのでしょう。同時に、そのような病気が人を社会的にも殺すようなことを含んでいることを忘れてはいけません。
 
治らぬ病、また感染症だとさらに社会復帰すら許されないか、戻るためのハードルが高くなります。私は穢れた者です、と叫びながら歩かねばならないなどという決まりもありましたが、しょせん人間の知恵です。でも、社会的には必要な対応であったのかもしれません。肉体を蝕まれると同時に、人々の交わりからも断たれると、死んだも同然でした。
 
こうした病人に対してイエスは、弟子たちを遣わしたのです。十二人という必要十分な数で象徴的に送りました。物品や金銭がその癒しの為に必要なのではありません。弟子たちが、その町、その家に受け容れられるかどうか、それが問題でした。受け容れられるならばそこに留まるとよい。そうでないならば、関わりを断つこともやむを得ないでしょう。
 
ルカは抗議のために埃を払い落とすなどとしていますが、マルコを引き継いでいると言えるでしょう。証しとして、と新共同訳は訳していました。福音の受け容れと癒しとが、ぴったり重なっていると見なされているのは確かです。癒しというのは、心身両面で人を救うものだと考えられていたに違いありません。
 
近代人はそこを軽く見逃しがちです。コロナ禍を経験して、私たちの癒しというのは何であるのか、省みる必要があるように思います。罹患者は社会的に差別され、遠ざけられ、面会もできなくなります。そこから恢復するということは、肉体的にも社会的にもそうあらねばなりません。癒しというのは、人間を確かに救うものなのです。


Takapan
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