ルカ版の悪霊に憑かれた人

チア・シード

ルカ8:26-39   


ゲラサ人の癒やしについては、マタイがかなりマルコを変え、また簡略化してしまいました。これに対してルカは、マルコをあまり変えてはいないように見えます。マタイは、悪霊に憑かれた人を二人に増やし、短い話にまとめてしまいました。豚にまつわるローマの軍隊の名が関わる記事には、あまり関心がなかったのかもしれません。
 
ゲラサ人のちは、恐らく異邦人の地という認識だったことでしょう。そもそも豚が大量に飼われていたというのは、まともなユダヤ人社会ではありえません。ルカ自身はこのことに深い関心をもって反発せず、マルコをおとなしく受け継いだのではないかと思われます。マタイのように、ユダヤ元来の律法への執着をもたなかったからです。
 
この男のほうからイエスに近づいてきています。悪霊の側から、構わないでくれと言ってきます。イエスが地方に来るということは、それくらいの影響を与えることだったのです。そしてこの汚れた霊は、イエスのことをよく知っています。構わないでくれ、苦しめないでくれ、とイエスに悪霊は願います。イエスは彼らを苦しめる主人なのです。
 
この男から出て行けと言われたために、悪霊は苦しんだようです。マルコは、何度も縛られたと述べていますが、ルカは何度も汚れた霊に取り憑かれたように変えています。一体その度に悪例が出ていき、また取り憑いたとでもいうのでしょうか。ルカの誤解が混じっているのでないとすれば、暴れた騒ぎのときに取り憑いたと考えているのでしょうか。
 
ルカは、悪霊により荒れ野へ急かされていた様子を描いているように見えます。荒れ野はイエスのスタートの地です。人として神に寄り添い歩むのと、逆の方向へ引き戻すのが悪霊の仕業です。悪霊さえ、底なしの淵を恐れるような描き方がなされています。閉じ込められた黄泉のことです。現実のユダヤの地理には時に疎いことを示すルカですが、神の秩序については思い入れを持っているようにも見えます。
 
豚へなら入り移り住んでもよい、と悪霊は思い、イエスに願い出ます。汚れたものは汚れた豚に入るのが適切であるとルカは結論づけるかのようです。人はそのとき、清くなります。犯した罪が赦され、晴れて神のものとなる道が拓けるのです。ルカだけが、この人が「救われた」と表現しています。救いのドラマが描かれているのです。
 
人々はイエスに、この騒動の故に、出ていってくれ、と願います。当の本人は、お供したいとイエスに願います。イエスはこの最後の願いだけは拒みました。そして諭し、イエスのことを、救われたことを伝えよ、と促します。そのためにこの人は生き直したと言えるでしょう。願うことと救われたことと、改めて注目して考えてみたいものです。


Takapan
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