生活世界を忘れずに

チア・シード

ルカ8:1-3   


神の国を宣教すること、福音を告知すること、それはイエスの使命でした。ともすれば、十字架と復活に焦点が当たるばかりとなり、それしか救いに関わらないような錯覚を与えかねません。とくにパウロが、こうしたイエスの地上生活には全く関心を示していないように見えるからです。キリスト教にとりパウロの影響は絶大です。
 
マルコの記録により、福音書という動きが始まりましたが、それはこのパウロ神学の、ある意味で偏った流れを、地上のイエスに引き戻そうとする抵抗のようでもありました。イエスの地上の歩みはどうだったか。そこに救いはどう現われていたか。日常の中にある大切なものを、日常を営む私たちが見落とすようなこどあってはなりません。
 
それでもなお、十字架は大きな出来事です。一団の首領が、世にも残酷な刑により殺されたということは、それほど大々的に告げ知らせたいこととは思えません。事実、死刑囚というだけで引いてしまうのが、多くの日本人の平均像です。誰が好き好んで、死刑になった犯罪人を拝むでしょうか。それに従おうなどと言うでしょうか。
 
しかし、福音書たるものは救いのこの基本を伝えなければなりませんでした。マルコのその思いをルカは受け継ぎ、かつマルコの足りないところを埋めようと努めたに違いありません。しかも、異邦文化の中へ、イエスの出来事が普遍的に通用することを、明確にするという使命を懐いていました。ルカは、これが私たちの日常につながることを伝えます。
 
十二弟子はもちろんのこと、多くの女たちもそこに同行していた、とルカは記します。きわめて当たり前のことです。生活を支えていたはずの女たちについてなど、出来事を記録するときには誰も気にしません。省かれるのが通例です。秀吉や信長の食事はどうだったか、誰がこしらえたか、そんなことに歴史記者も研究家も興味はないのです。
 
しかしルカは、そこに光を当てています。この女たちは、恐らくイエスの死を遠くから見ていたことでしょう。葬られた墓をも訪れています。女たちは、イエスと弟子たちの旅に仕え、財も出し合っていたとされ、生活の基盤を支えていたわけです。言及されない生活の場面に私たちはもっと関心をもち、生きた福音理解に努めたいと願います。


Takapan
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