今よみがえれと告げた

チア・シード

ルカ7:11-17   


死んだ青年が起き上がって口をきいたのを見て、人々は恐れを懐きました。これが「偉大な預言者」の現れだという声を呼びました。「神はその民を顧みてくださった」とも言いました。神を崇めたのです。イエス当人を拝むようなことはしません。ユダヤの人々は弁えています。すべての偉大な業は、ただ神のものである、と。
 
従って、神の力を現した人は、神の預言者であるのです。この姿勢は、学びたいものです。不思議な業、奇蹟を起こす者がいたとして、その人を拝んだり偶像化したりしてはいけない、ということです。その人は神でない、とすべきなのです。ところがここでは、これがイエスです。ルカは一体、イエスを誰だと心得ているのでしょうか。
 
あるいは、神か人かという判断を、読者に与えようとしていたのでしょうか。救い主であり、キリストだと告げた天使の言葉は、ここへどうつながり、命を与えるのでしょうか。若者に対して、イエスは「あなたに言う」と向き合っています。「あなたに」という語をわざわざ持ち出してきています。普通その語は使う必要がないのです。
 
ほかならぬ「あなたに」言うのだ。他の誰に対してでもなく、「あなたに」なのだ。いま私の前に眠っているあなたに、命の言葉を与える、とイエスは言うかのようです。このメッセージは大きいものです。ここへ至ったのは、母親をイエスが見たからです。母親は泣き崩れていたとは書かれていません。町の人たちが大勢そばにいた、ただそれだけです。
 
町の門から外へ、息子は担ぎ出されようとしていました。父親はいません。もちろん息子の死は悲痛ですが、働き手を喪い、やもめの母親には、明日からの生活がすべて消えたことになるのです。イエスの目からこの母親を見ると、腸がちぎれそうな思いがしたのでしょう。「憐れに思い」という、穏やかな表現では伝わらない感情のはずです。
 
自分は母マリアを放り出してしまい、この死んだ息子のような立場でしたから、イエスの感情は複雑であるような気がします。もう泣かなくともよい。いや、ギリシア語では端的に「泣くな」です。「泣くな」「起きよ」と告げる預言者を、いま神が立てたのです。その言葉は、「復活せよ」のように響きます。イエスに、そして私たちに。


Takapan
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