裁くな・赦せ・与えよ

チア・シード

ルカ6:37-42   


裁くな・赦せ・与えよ。そう言ってからイエスは、弟子としての訓練の必要性を挙げました。他人の目の中の小さな屑に気づく者が、自分の目の中に丸太すら見えないままに、他人にとやかく言うようなことをするな、と問題を投げかけたのです。どだい、自分の方が物事が見えていないのです。それを常時自らへの戒めとしておけば、争いは減るでしょうに。
 
盲人は盲人の手引きができないという喩えによって、裁くな・赦せ、という抽象的なメッセージを具体的な形に近づけたとも言えそうです。そうだ、ひとを裁いてはいけません。キリスト者は分かっています。教会でも念入りに語られるし、一種のタブーのように暗黙の了解にもなっていて、無闇に他人の非難をすることは基本的にないはずです。
 
けれども、SNSのような環境は怖いもので、こうした戒めをすっかり忘れて、というよりそもそも理解しておらず、一日中他人を裁きまくる人がいます。クリスチャンと名のるだけに、自分がそれ以上に酷いことをしているという愚かさに気づかないとなると、始末に置けません。おまけにクリスチャンとは酷い奴だなと宣伝しているようなものなので尚更。
 
イエスの指摘は、今この時代にも適用できるのは明らかです。しかし、このように今判断している私にしても事情は全く同様なのであって、よくよく気をつけねばなりません。人間が自分だけは特別だと自己義認してしまう性質をもっていることがこうして証明されたとすると、これが一つの重大な罪の本質であることに、気づかされることになります。
 
ところで、裁くな・赦せ、に続いて、与えよ、がありました。与えなさい、「そうすれば」与えられるのです。もうこれ以上要りません、と断ってもなお恵みが与えられ、懐に押し込まれます。人間から与えられるのでしょうか。結局神から与えられる、と読むべきでしょう。与えられたものが返ってきます。これは、好むものばかりではありません。
 
人を裁けば、その裁きは自分へも向けられます。逆に赦しを与えれば、自分にも赦しが与えられるでしょう。したことが戻ってくる。それで自分のなにげない行為の及ぼすことを、もっと真摯に考えるようになりたいものです。他人のことはよく見えても自分のことを認識はできないもの。ならばせめて他人へ辛く当たらないように心がけようではありませんか。


Takapan
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