信仰と罪の赦しとの関係

チア・シード

ルカ5:20-23   


屋根は剥がされても、家を壊してしまう構造にはなっていませんでした。床と病人とを吊り下げたというからには、紐のようなものを用いたのでしょうか。患者は真ん中に、つまりイエスの前に降ろされました。この様子にイエスを何を見たか、それを私はこう思います。信仰を見たのだ、と。でも、「信仰があなたを救った」のようには書かれていません。
 
ルカはこの言葉を、7,8,17,18章で幾度も記していますが、吊り降ろすという強烈な場面では、信仰による救いは告げていません。イエスはこんなことを思っていなかったのでしょうか。そんなことはないと私は思います。ルカにとり、初期の出来事のようにまとめたこの記事の中で、イエスの考えをいくらか隠すような扱いをしたと思うのです。
 
ただ、宣言は必要です。「人よ。あなたの罪は赦された。」この宣言も強烈です。病人へももちろんですが、これが律法学者やファリサイ派の人々に突き刺さりました。イエスに好意的だったであろうこの登場人物たちが、ここで受け付けられなくなるのです。初めからイエスを陥れる意図はなかったようで、弟子のような顔をしていたとしても。
 
罪を赦すというこのイエスの言葉は、神を冒涜するものとしか聞こえませんでした。既成のユダヤ教からすれば、実に尤もなこと。罪を赦すことは、神にしかできないからです。信仰の世界には、このような固定観念がきっと伴います。私たちが信仰と考えている事柄も、全くの思いこみで、聖書にはそんなふうには書いていない、ということもあります。
 
イエスは、彼らが論じ始めていたことは分かっていましたが、話の内容は聞こえてこなかった模様です。でも心の中で考えていることは分かるといいます。そこで問います。「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいか。言うだけなら前者が楽ですが、宗教的には、人は決して言えないでしょう。


Takapan
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