石をパンに変えよ

チア・シード

ルカ4:1-4   


悪魔の試みが始まりました。イエスが宣教を始めようとするとき、まずこうした試練が与えられます。ヨルダン川での洗礼の後のことです。試みは、良い状態、良い状況の中で始まることがしばしばあります。私たちなら、浮かれているところで失敗するという具合です。でもイエスは失敗しません。するとすれば、十字架そのもの。神の計画の内での、失敗現象。
 
人に理解されず、石を投げられ、憎まれるイエス。でもそれ故にこそ、慰めとして私に迫ってきます。荒れ野へ霊が導いた、と書かれています。空を飛んだとイメージしなくてよいと思います。どうしてもそこへ行かなくてはならない気がする、という場合が私たちにもあります。何故だか知れないが、そこに連れて行かれるという思いです。
 
マタイによる福音書でも詳しく伝えていますが、40日間の試みというのは、十分な期間という意味を示します。数字そのものを一年、二年と数える必要はありません。何かしら十分な時間を経て、ようやく悪魔が声をかけてきたことになります。苦しみと闘っている最中に敵が来たというのなら分かりますが、それを終えた時に来たというのです。
 
何かしら充実感を覚えたその瞬間に、罠が待っています。あやまちすな、心して降りよ、と低いところで高名の木のぼりにかけた言葉は、なかなかの知恵です。イエスはエルサレムに入るところで、空腹を覚えていたのに、見上げたイチジクの木に実がなっていなかったために、呪いをかけて枯らしたことがありました。宣教の初めもなんだかそれのように見えます。
 
これらは対応している出来事なのかもしれません。「神の子なら」とは本来要らない仮定です。だつてイエスは神の子なのですから。まさかこれはイエスの自問なのでしょうか。石をパンにしたらどうか。自分の空腹のために、です。パンとサーカスを期待するローマ帝国の論理も重ねて考えることができるかもしれません。
 
人を殺すために使われるような石が、人の命を支えるパンになったとしたら、それはとても平和なメッセージになるでしょう。いっそ石をパンに変えてしまえばいいのかもしれません。けれどもイエスは、そうはしませんでした。人は、パンによって生命活動が可能になります。食べないで生きられるなどと綺麗事を言うつもりは聖書にもないはずです。
 
しかし、これだけが「命」と呼べるものでもない、と聖書は考えています。神の口から出る一つひとつの言葉によって生きるのです。これは生物学的な生命現象のことではないように思われます。そう、一つひとつの言葉。私たちはどれほど、このことを信じて、聖書の言葉を一つひとつ味わい、丁寧に読んでいるでしょうか。


Takapan
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