いま実現する言葉

チア・シード

ルカ4:16-21   


この場面の直前に、ガリラヤに帰った時点で、すでにイエスが評判になっていたとルカは記します。そんなことがあるのかと不思議に思います。イエスが有名になる背景がまだ何もないからです。聖書は必ずしも時間順に説明しようとしていないように感じます。だから、イエスが説教デビューしたことを記した、とだけ理解しておくことにします。
 
それでも「いつものように」という、さりげなさがここにあります。会堂に入ることは、幼い頃からのあたりまえであったことでしょう。聖書を朗読する、ラビが読み解く、ノーマルな形なのでしょう。当時の礼拝形式は、今の教会の礼拝と通じるものがあるそうです。イエスは、語る箇所を選ぶことができたのでしょうか。今回はイザヤ書が渡されました。
 
イザヤ書と詩編は、新約への引用の多さで際立っています。イエスは、自身の任務をこの61章の箇所に見ていました。福音、つまり良い知らせは、貧しい人々に告げ知らせるためのものだというのです。捕らわれている人に解放をもたらすことは、精神的にも苦しめられているイスラエルの民の、誰の心にも響いたのではないかと想像します。
 
それは、社会的に束縛されていたり圧迫されていたり、その上差別まで受けていたりする人々のために、投げかけられたように感じます。何かしら自分では抗えない力に屈している人にも、振りほどく勇気が与えられたかもしれません。主の恵みの年、ヨベルのような解放がそこにあると思われます。私たちは、礼拝で、これを受けたいと願うものです。
 
朗読に続くイエスのコメントが、また福音となるべく用意されていました。今日、この言葉が実現したのだといいます。聖書の言葉は、もちろん実現する言葉です。だから神の言葉なのです。神の言葉は、即実現する出来事であることを意味しています。それを、いま耳にしたのだ、まさにいまそれが起こったのだ、と私たちもまた感じることができます。


Takapan
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