神の言葉を聞くときところでキリストが現れる

チア・シード

ルカ4:16-21   


教えを伝え始めてすぐガリラヤに戻ったイエスは、故郷のナザレに来ました。そもそも故郷を離れたところで行動を始め、基盤の地をもったということでしょう。安息日に会堂に入るのは「いつものとおり」なのだといいます。礼拝に集うのが日常であったことが分かります。「いつものとおり」なのはそこまでで、次の行動は、ここで初めてのようでした。
 
朗読するために立ち上がった。これがこの日に特徴的なことです。これまでのイエスとは違うことをしたのです。何かがここで変わります。それで、この次の場面で、人々が驚いたのです。あの大工の倅が、何偉そうに妄想懐いて喋っとるんだ、けしからん、神を冒涜するのか、と群衆はイエスを殺そうとさえするのです。
 
けれども今は、この人々の反抗について追及はしません。朗読、それは礼拝の重要な営みです。当時のスタイルとして、志ある者が朗読や説教ができたとも言われます。パウロもそのようにして語り、好評を得て次週も話を聞かせてほしいと願われていました。神の言葉を説き明かすのも大切なことですが、朗読がまた大切であることを噛みしめましょう。
 
代表者が神の声として、聖書を朗読します。これを会衆が声を出して読むというのは、おかしなことです。神からの声を聞く、それが礼拝の第一歩です。聖書の言葉が神からのものであるとするのであれば、人々は、聞くことで神を礼拝することになるはずです。論語を学び寺子屋で声を上げて読むのとは違います。  
さて、イエスは、イザヤの巻から、イエスの登場に相応しい箇所を取り上げます。メシアとしての自覚とでも言いましょうか、イエスは聖書の預言の実現だと私たちは信じているわけですが、特にイザヤ書と詩編からの引用が、そうした指摘をする新約聖書には多いようです。イエスは、イスラエルの民が待ち望んでいたメシアの具現であると証言するためです。  
私たちはこのイエスを崇めています。イエスを証言する聖書においては、苦難も描かれますが、弱り果てた民の進むべき道を備えそれを希望と共に歩ませるという神の力も描かれています。私たちは、その中にいるでしょうか。貧しい人、囚われている人、目の見えない人、打ちひしがれている人、ここにいるはずです。参列しているでしょうか。
 
それとも、逆にこうした目に人を遭わせる、加害者の側にいるのでしょうか。聖書は「書かれたもの」という語で表現されますが、その言葉はイエスにより今日実現したのだと宣言されます。私たちが耳にした、その「今日」です。私たちのところで、私たちの目の前で、私たちを通じて、実現したのです。私たちが聞いたそのとき、イエスはキリストとなるのです。


Takapan
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